何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2008年12月31日水曜日

宿題

ご無沙汰してます。。。このエントリが皆さんの目に入るのは、いったいいつのことでしょう(苦笑)閉鎖するのは惜しいし、とはいえ更新するのは大変だし。どうやったら皆さん投稿しやすくなるのでしょう?年末年始の大きな宿題です。

2008年9月10日水曜日

日本近代仏教史研究会『近代仏教』15号目次

北條さんに倣い、雑誌目次をアップします。

  • 石井公成 「明治期における海外渡航僧の諸相―北畠道龍、小泉了諦、織田得能、井上秀天、A・ダルマパーラ―」
  • オリオン・タウラタウ 「辻善之助の仏教史学とその構想―江戸時代の語り方を中心に―」
  • 山本世紀 「北甘楽各宗和敬会と釈放者保護活動について」
  • 繁田真爾 「日清戦争前後の真宗大谷派教団と「革新運動」―清沢満之「精神主義」の起源―」
  • 指方伊織 「M・L・ゴードンの大乗非仏説論―宣教師がもたらした近代仏教学―」
  • 辻村志のぶ「〈新刊紹介〉木場明志・程舒偉編『日中両国の視点から語る 植民地期満洲の宗教』
  • 岡田正彦 「〈新刊紹介〉谷川穣著『明治前期の教育・教化・仏教』」
  • (彙報)モール・ミッシェル 「欧米新刊雑記」
石井論文については、すでにもろさんが言及されてますね。

2008年9月3日水曜日

『国文学 解釈と鑑賞』8月号「特集 フォークロア研究の最前線」

このブログをまったく機能させないでおりまして申し訳ありません。
抜本的解決には至っておりませんが、土居さんから「他領域との情報交換に活用せよ」とのご批判をいただきましたので、今回は一月遅れながら標記の雑誌のデータを入力しておきます。

○総論
・小池淳一「民俗研究の新しい流れ」
・菊池 暁「「おまえはすでに〈民俗学者〉だ」―〈民俗学〉の「可能性」なるものの語り方」
○歴史と思想のフォークロア
・杉 岳志「天変とフォークロア」
・宇野功一「都市祭礼における起源伝承の創出と活用-近現代の博多祇園山笠を例に」
・小田真裕「国学とフォークロア-宮負定雄における民俗」
・鯨井千佐登「皮をむく境界の神」
○近代とフォークロア
・青木隆浩「近代規範意識とフォークロア-若者文化との対峙」
・川村清志「フォークロリズムの射程、あるいはポスト民俗学にむけて-」
・内田順子「民俗誌映画の課題」
・真鍋昌賢「漫談とは何か-口承文芸研究の新たな課題として」
・丸山泰明「軍隊のフォークロア-航空兵の記憶」
・渡部鮎美「歩く人生-秋田県八郎潟周辺の生業の変貌とその労働観」
○現代社会のフォークロア
・山田慎也「現代儀礼研究の課題と方法-葬送儀礼研究を中心にして」
・板橋春夫「通過儀礼の新視角」
・大石泰夫「老人と過疎-民俗芸能の継承から」
・室井康成「政治/選挙をめぐる民俗学的思考-その意義と若干の展望」
・重信幸彦「〈遊撃〉の街へ-新自由主義の時代を走るタクシー」
○文学とフォークロア
・山田厳子「巫女と戦争-東北における危機のフォークロア」
・伊藤慎吾「貴族のフォークロア-室町期の紀伝道を中心に」
・上野 誠「歌による暴力-心性と場と」
・佐藤 優「口承文芸研究と文学史-〈口承〉研究を視座として」

2008年6月24日火曜日

古代文学会連続シンポ7月のお知らせ

みなさまこんにちは。
古代文学会の連続シンポ、7月のお知らせです。(今年度の、毎月一回連続のシンポはこれで最終となり、8月には箱根に二泊して集中シンポを行います。)
今回は、ファンタジー作家の荻原規子さんをお招きし、会員からは三浦佑之さんがレポート。稲生知子さんの司会で、神話の現在にとっての魅力とは何か、を考えます。
古事記に興味がある、日本神話が好き、という学生さんのなかには、必ずといってよいほど、高校時代までに『空色勾玉』『白鳥異伝』『薄紅天女』など荻原さんのいわゆる勾玉三部作を読んだという人がいます。
荻原作品の魅力の秘密も知りたい、というのがイノの個人的な期待でもあります。

【・・・・前略・・・「・・この土地は二度と実を結ばない。花を咲かせない。土地神を失ったからだ。国つ神にはぐくまれない土地は、生命の息吹をもたないのだ」・・・・後略】
【・・・・前略・・・「わたしは、死を賜りたいと思います。できることならば、豊葦原の人々と同じように生き、同じように年老い、死んで女神のもとで憩うことのお許しを」・・・・後略・・・】
『空色勾玉』1988年8月15日、福武書店より

******古代文学会HPより**************
古代文学会7月例会(第583回)のご案内

日 時 2008年7月5日(土) 午後2時~5時

     
1:30より入場受付。それ以前には校舎内へ入らないでください。

場 所 共立女子大学 本館 2階 204教室
     
●地下鉄「神保町」駅下車A8出口から徒歩1分
      ●地下鉄「竹橋」駅下車1b出口から徒歩3分
      ●地下鉄「九段下」駅下車6番出口から徒歩5分
      →地図

連続シンポジウム「神話を考える」
第4回 「ファンタジーと神話」
―ファンタジー創作と古事記研究の現在から日本神話の魅力を語る―

パネリスト(1) 荻原 規子 氏
題 目 わたしと日本神話―「空色勾玉」「白鳥異伝」が生まれるまで―
要 旨

 ファンタジーとは何かという、正確な定義づけはいまだにありません。初期の英米児童文学研究書が、研究対象を「リアリズム」と「ファンタジー」に大別し ていたところから、名称が始まっていると思われます。私も、ファンタジーとはリアリズムでない創作文学―空想に基づく事象が現出した創作文学と、大ざっぱ な枠組みだけで考えています。
 人間の空想力は自由奔放かというと、けっしてそうではありません。必ず連想パターンがあり、ある方向を好む癖があり、そうした連想力の強制のようなもの は、神話や伝説、民話といったところに降り積もっていきます。だから、ファンタジーを志すなら、このような伝承物語群への関心を持たずにはいられなくなる のです。
 理詰めに進めると失うものが出てくるのがファンタジーの創作なので、そうそう普遍化することはかなわず、一個人の体験しか語れません。ですが、私と日本 神話の出会い方、これに魅力を感じ、自分が日本神話をモチーフに創作したいと考えたいきさつなどを、ここでお話しできたらと考えています。

パネリスト(2) 三浦 佑之 氏
題 目 人はなぜ古事記に魅入られるのか
要 旨
 ファンタジーが何かを知らないままに言うのだが、それが、現実世界の向かい側に存在するものであるとすれば、日本書紀の対極に置 かれた古事記はファンタジーに満ちている。おそらく、敗れていったものたち、死んでしまったものたち、去っていったものたちの物語がファンタジーになるの だ。出雲神話を語るところに、ヤマトタケルやサホビメやマヨワの死をあのように語るところに、ファンタジーとしての古事記はあるのではないだろうか。

司 会 稲生 知子 氏

【ご協力ください】
(1)ビデオ・写真等の撮影はできません。
(2)録音は、個人的使用を目的とする場合のみ許可します。(著作権侵害にご注意ください)
(3)なお、当日の口頭発表は文章化して会誌『古代文学』48号(2009年3月発行予定)に掲載いたします。



2008年6月23日月曜日

歴史家としてのウェブ

授業で伯夷列伝を取り上げたんですが、司馬遷が、歴史家として行うべきこと/また実際に孔子が行ったことは、富や名声がなくて報われない人生を送らざるを得なかった立派な人をせめて名前だけでも残して顕彰してあげることではないか、と列伝の最初に天に問いつつ高らかに宣言しているくだりを読み直して、「加藤の乱」を連想せずにはいれませんでした(彼が立派かどうかはともかくとして)。
 してみると、政府サイト、ニュースサイト、掲示板、ブログなどの集合体/集合知としてのウェブが、結果として司馬遷が『史記』に託した思いを正しく受け継いでいるのだなあと。検索やまとめサイトによるフィルタリングのスタイルって、編年体よりも紀伝体に近いよな、とかそんな妄想をしてみました。

2008年6月20日金曜日

リトマス試験紙

たまたま編集者の方とお話しする機会があって、「××を評価するかどうかがリトマス試験紙だ」てな話題になりました。××には個人名が入ります。つまり商業誌で書いてもらう学者さんたちに対する目利きの問題ですね。おそらく各分野であるんだろうと思います。でも文字にするのは憚られるでしょうから(苦笑)こんど逢った際に教えてくださいませ。と”ゐでした。

2008年6月13日金曜日

批評と研究

やれ学会だ研究会だとアチコチ移動していると”ゐです。この週末は名古屋の南山大学で「宗教と社会」学会学術大会に参加してきます。

この学会はその名の通り、「宗教と社会・文化の関わりについての学術的研究の促進、研究者同士の学際的な交流を図ることを目的とする」(学会規約より)学会ですが、そのことを研究する学者の存在意義とは何だろう? との再帰的な問いまで踏み込むと途端に話はややこしくなります。何のために宗教研究者は存在するのか? 宗教教団と宗教学者とはいかなる関係か? 広義には、実践者と研究者との関係をめぐって様々な領域で反復されるこの問いに唯一の解はありえず、むしろ繰り返し問い続けなければならない類の問いなのでしょう。最近の拙ブログでのエントリも同様の内容です。とゆーか、と”ゐはひたすら同じ問いを繰り返しているに過ぎないのですね。

2008年6月6日金曜日

歩いて10分ほどのところで

明日のシンポ参加したいのですけども、残念ながら明治大で科研の打ち合わせがありまして(T^T)熊楠と篤胤ですよっ!民俗学的知性を刺激されること請け合いぢゃないですかっ!!う〜む悔しい……懇親会からでも合流したいなぁ……あ、でも連絡手段が。。。

2008年6月3日火曜日

「あの世」講座が開始いたしました

夢見班は今年は「あの世」班として、首都大Ou講座を開いています。「「あの世」をめぐる文化誌」です。山手線の飯田橋~四谷界隈は「あの世」とか「異界」とかを語るにぴったりの「場所」なんだなあと、昨日もほうじょうさんに「異界」講座の実地研修のお話しをうかがいながら、あらためて確認。

昨夜、一回目はイノが古事記の黄泉国についてお話いたしました。

ちょうど、ほうじょうさんも大学のほうで、「黄」「泉」についての講義を終えたところ、ということで、「黄泉」という漢字の文化的深みについてはまったく触れなかったイノといたしましては、冷や汗もの。勉強して出直してこい、ってかんじです。

まあそのうえで今回、古事記を読み直してみて発見したのは「あの世」にたいする「この世」は、古事記においては「うつし国」という言葉に相当する世界であるということです。

「うつ」(現)の「国」とは、山川野などから成りますが、それらはすべて神々なわけで、現在進行する神々の具体的活動じたいが「場」を現前させている世界であり、その神々はイザナキ・イザナミという男女の「身」を具現した神の交合と出産によってこそ出現した、ということかと思います。

そして、人は「人草」。高天原と、もう一つの「国」である黄泉国に対して「葦原中国」とも呼ばれる「うつし国」の葦原の一部を成す「草」であり、誕生と死を繰り返しているわけです。

と、なにやらひじょうに、ファンタジーっぽいお話になったのでした。

古代文学会シンポジウム6月のお知らせです

古代文学会6月例会(第582回)のご案内
日 時 2008年6月7日(土) 午後2時~5時


場 所 共立女子大学 本館 2階 204教室
     
●地下鉄「神保町」駅下車A8出口から徒歩1分
      ●地下鉄「竹橋」駅下車1b出口から徒歩3分
      ●地下鉄「九段下」駅下車6番出口から徒歩5分
      →地図

連続シンポジウム「神話を考える」
第3回 「神話的思考の可能性―篤胤と熊楠―」
―近代始発のジャンル横断的な知の中に、神話的思考の未来を探る―

パネリスト(1) 安藤 礼二 氏
題 目 「燕石考」読解―南方熊楠の神話論理素描
要 旨

 南方熊楠(1867-1941)は、その生涯においても思想においても、互いに相容れない二面性を生き抜いた。顕わなものと隠されたもの、過剰に言語化 されるものと根底から言語化を阻むもの、そして人為と自然……熊楠はつねに二つの極の間を揺れ動き、二つの極の矛盾と相克のなかから、己の特異な神話的思 考方法を編み出していった。「燕石考」はそのような熊楠的な神話論理の結晶として、図書館と森を舞台に、その二つのきわめて特徴的な場所の連続性と断絶性 のもとに成立した。図書館に整序された近代の知の体系を、太古の混沌とした森によって一度徹底的に破壊し、さらにそれを再構築すること、そこに総合をもた らすこと。その試みは、まさに「前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す」南方曼陀羅の母型となった。心と物、夢と現実の相互作用 から生み出され、この世界に形を与えてゆく「事」の論理。それは近代を条件とし、そのことによって逆に近代を乗り超えてゆくような「神話」の力を体現する ものであったのである。

パネリスト(2) 山下 久夫 氏
題 目 篤胤の神話的思考
要 旨
 狂信的なイデオロギスト篤胤像は、徐々に崩れつつある。しかし、まだ自国中心主義の誇大妄想家というレッテルからは必ずしも自由 ではなく、その言説にはいささか辟易させられるという傾向は続いているように思う。わたしたちは、一見誇大妄想に思える彼の言説に冷静に付き合い、これを 近世後期における「知」の問題として位置づける必要がある。その際、神話的思考の可能性を考えるというテーマは、とても有効だ。近世には、「近世神話」 (すでに斎藤英喜氏が使っているが)「近世考古学」と称するような何かがまちがいなく存在し、ロシアの南下に示される西洋の外圧を感じる中で自らの生きる 空間の意味を問い直し、再認識する「知」の運動が盛り上がっているからだ。天竺・震旦・本朝の三極構造は大きく揺らぎ、西洋天文学の要素を導入しながら神 話の再構築が行われる。篤胤は、そうした「知」の最先端にいる。彼の再構築した神話は、十八世紀~十九世紀の人々を、天文、地誌、神代文字、宗教、鉱物、 薬草、医学等、ジャンルを越えた「知」のうねりに導く。神話的に考えることは、あらゆるジャンルが交叉する空間(トポス)を発見することであった。坩堝の 発見が、「日本」意識のモチーフになっているのである。
 今回は、『霊能真柱』『仙境異聞』『古史伝』等を対象にしながら、霊魂の行方や幽冥界に関する篤胤の言説を、上記のような問題意識の中で新たに意味づけ し直してみよう。幽冥界の意味も、死後の救済という狭い意味での宗教にはとどまらないのではないか。霊魂へのこだわりと「古伝」とは、どのように結びつく のか。篤胤は、仙童寅吉に何を聞こうとしているのか。山崎美成、屋代弘賢の寅吉への質問の仕方とも比較しつつ、篤胤の「知」に迫ってみたい。

司 会 保坂 達雄 氏

2008年5月30日金曜日

無事に開催できたので……

先週末の巡検については拙ブログでちょこっとだけ紹介したのみですが……なにせ終了後そのまま京都へ移動したので……前回の投稿に、ほうじょうさんがコメントしてくれてますように「打ち上げできなかったのが心残りです。反省も兼ねて、ぜひ近いうちに! イノさんもご光臨を」とありますから、この機会にこの場へ集う方々で都合のよい方は全員集合!くらいな勢いで集まりたいものです。え?企画しろって?そりゃ都内に週一しか出ないような人間じゃ仕切れないですよ……と急に及び腰になると”ゐでしたf(^_^;

2008年5月23日金曜日

無事に開催できますように!

いよいよ明日、「異界」講座の巡検です。今日の陽気からしますと、雨天の準備、とゆー気にならないのですが……いずれにせよ、無事に開催できますように!なんだかんだで関係各位全員が揃うのって、「異界」講座が開始されてからは、この巡検が初めてだと、つい先ほど気付いたと”ゐでしたf(^_^;;

2008年5月16日金曜日

ガッカイジジョー

今度の日曜に現代民俗学会の設立総会があるんで、見物する予定のと”ゐです。御存知のように日本民俗学会が存在しますから、それに匹敵するデカイ名前なので、ちょっと話題になっています(とくにみくしぃの一部で)。なんとなく、日本宗教学会に対して、「宗教と社会」学会があるのと似ているように見えますが、どうもそう簡単な話ではないようです。ま、とりあえず現場を見物してきます。
できれば皆さまの関わる領域で、類似の現象がある/あったら、どうかご教示くださいませ<(_ _)>

2008年5月9日金曜日

「異界」講座も大詰めですね

「異界」講座巡検の下見、参加できずにスミマセンでした<(_ _)>でもたいへん期待できそうなルートのようで、当日が楽しみです。適度に晴れるとよいなぁ……おっとその前に、と”ゐ担当の講義がありますねf(^_^;さて、どんな風に進めようかなぁ……

2008年5月4日日曜日

拙論「五姓各別説と観音の夢」出ました

もろです。
ほぼ週刊四谷会談: 観仏信仰と夢 (1)とかほぼ週刊四谷会談: 観仏信仰と夢 (2)に関連する拙論「五姓各別説と観音の夢 ―『日本霊異記』下巻第三十八縁の読解の試み―」(『佛教史学研究』第50巻第2号、2008年3月、pp. 30-52)が(4月の終わりになって (^_^;;)出ましたので、テキストへのリンクとともにご報告します。
佛教史学会の会員以外の方には、抜刷をお送りします…と言いたいところですが、送付先がわからない方もいるので、ご希望の方はご連絡下さい(すんません)。

2008年5月2日金曜日

「仏教と神話」―カノン(聖典)とメチエ(技法)としての注釈が織りなす神学の体系―、明日ですね。

イノさんご案内の古代文学会連続シンポ第2回目、いよいよ明日ですね。と”ゐは残念ながら参加できませんが、御盛会であることを祈念しております。

2008年4月25日金曜日

東アジア宗教文化学会

と”ゐです。以前のエントリでもちょこっとご紹介しました、東アジア宗教文化学会(仮称)なる学術団体が、この夏、韓国・釜山の東西大学校で開催される創立大会に向けて、具体的に動き出しました。管見の限りで類似の諸団体と比較した特徴を挙げますと、(スタート時点ですでに)日本・中国・韓国三カ国からなる国際的学術団体であること(この点は「東アジア」の名に恥じないかと思います)と、いわゆる宗教研究者のみならず、教学研究者も重要なメンバであることかと存じます。
なお大会の参加受付は5月18日(日)までとなっております。大会日程概略は、8月1日に現地入り・2日朝から3日昼まで学術大会・3日昼から4日にかけて見学旅行(海軍士官学校内の宗教施設・地域の天理教・SGI)の予定です。
すでに個別にはご案内が届いた方もおられるかと思いますが、ご興味ありましたら是非と”ゐまでメールください。折り返し参加費など関連ファイルを沿えたご説明メールいたします。

2008年4月23日水曜日

古代文学会連続シンポジウム2回めのお知らせ

こんにちは。イノです。
古代文学会の連続シンポ、二回目のお知らせです。

今回は学会外から中世文学(和歌、説話、宗教芸文)の小川豊生氏をお迎えいたします。
「中世神学のメチエー『天地霊覚秘書』を読む」『「偽書」の生成ー中世的思考と表現』森話社、など、日本中世の宗教的な言説を含む膨大で混沌とした言説世界に分け入り、解析されている方です。
「創作」の概念とはまったく違う、「建立」という語への注目、とても興味深いです。(神話は寺院建築や仏像・仏画と同じように「建立」される?佐藤さんが示唆された、神話と空間・場所との関係を別の角度から考えることになる?)
会員の山口敦司さんは奈良時代の日本における仏典注釈、奈良時代の僧たちが読んだであろう漢籍類(冥報記などなど!)を視野に入れつつ、『日本霊異記』の研究をされています。

連休の中日ですが、みなさま、ぜひいらしてください。
*****

日 時 2008年5月3日(土) 午後2時~5時場 所 共立女子大学 本館 2階 204教室
     ●地下鉄「神保町」駅下車A8出口から徒歩1分
      ●地下鉄「竹橋」駅下車1b出口から徒歩3分
      ●地下鉄「九段下」駅下車6番出口から徒歩5分 

連続シンポジウム「神話を考える」第2回
 「仏教と神話」―カノン(聖典)とメチエ(技法)としての注釈が織りなす神学の体系。―

パネリスト(1) 小川 豊生 氏
題 目 日本における「霊性」の起源と神学のメチエ
要 旨
 周知のように、鈴木大拙は昭和19年、敗戦の必至を自覚しつつ『日本的霊性』を書き、そこで「日本的霊性なるものは、鎌倉時代で初めて登場した」という命題をたて、「霊性的日本の建設」を宣揚した。時期を接して折口信夫は「神道宗教化の意義」や「宮廷生活の幻想」などにおいて、「神話は神学の基礎である。…神学の為に神話はある」と、日本における神学の組織化の必要を説いた。鈴木や折口がここで主張する「霊性」の自覚や「神学」の創出というテーマは、最近もなお新たな角度から議論の対象となっているが、ここではこうした議論をより確かなものへと押し進めるための前提として、鈴木や折口が視野に入れることのなかった、中世の人々の「霊性」の受容や「神学」の実践について検証してみたいと思う。
 最近の古代文学会が掲げる「霊性論」というテーマに資するためにも、いきなり「古代日本の霊性」へと遡るのでなく、まず中世の人々が「霊性」をいかなるものとして具体的に把握していたか、その霊性を通じて古代の神話をいかに作り変え、「神学」として変成していったのか、といった問題を考えるべきだと思う。
 またここでは、神話や神学の再編・創造を指し示す概念として「建立」という用語にもあらたに着目してみたい。古代・中世において、「神話づくり」や「神学の組織化」の意義に該当する適切な用語を求めるとすれば、「建立」という用語がふさわしいのではないか。中世の神話関係のテキストのうちには、「吾朝の建立」あるいは「三界の建立」「世界建立」といった言葉がしばしば登場する。
 「建立」という語自体はむろん遡ればきりがなく、また用例も広範囲にわたるが、中世日本の用例をみていくと、この語はある独特の位相を内包しているように思われる。とくに神話の考察において、「建立」という言葉は、いろいろな問題に波及させうる有効な「操作概念」として機能するだろう。そもそも神話は「霊性の語り」によるものであって、神話には作者はいない。神話は「創造」や「制作」「構築」といった近代の概念ではとらえることができないが、この古代や中世における「神話づくり」の特異な位相を「建立」の語の導入によって見出すことはできないか。いくつかの具体的な事例を取り上げて考えてみたいと思う。

パネリスト(2) 山口 敦史 氏
題 目 「蘇民将来」の〈神話〉と経典
要 旨
 「蘇民将来」の伝承には謎が多い。『釈日本紀』や卜部兼方自筆『日本書紀神代巻』等に「備後国風土記」として収録されており、これが奈良時代成立の所謂「古風土記」か否かについては議論がある。  
 この伝承は形を変えて『ホ(竹+甫+皿)キ(竹+艮+皿)内伝』『神道集』等に表れ、牛頭天王信仰や祇園信仰などと結びつく。そこには陰陽道・神道・密教・中国神話など、神学体系に裏打ちされた〈偽経〉が作製され、導入される。
 本発表では、古代から中世にかけて〈起源〉のために〈神学〉が形成される知的営為について考察する。

司 会 吉田 修作 氏

******

(太字、改行はイノによります)

2008年4月18日金曜日

より上質なモノを!

今週もまた金曜にエントリできることのありがたさを痛切に感じていると”ゐです。さてひょんなことで宮内庁での雅楽演奏会を観覧する機会を得たのですが、やはり上質のナマは全然違いますね!とくに篳篥ですが、音が丸いというか太いというか何とも形容しがたいのですけども、レベルの違いを思い知らされた……別にと”ゐは演奏家ではないんですけどもf(^_^;いろいろな意味で、より高みを目指さねば!と感じた次第です。

2008年4月11日金曜日

明日12日、古代文学会4月例会ですね!

と”ゐです。先にイノさんがご紹介された古代文学会の4月例会は学会サイトの例会案内頁へリンク貼っておきますね。天気も落ち着きそうだし、拝聴させていただこうかなぁ……ところでBShiにて24火(木)20時から2時間弱、ハイビジョン特集フロンティア「異界百物語〜Jの秘密を探る〜」なる番組が放映されるとのこと。このメンバの皆さんには、「あぁ関連する話題だよね〜」と首肯くださると思いますが、「え?なんで神話と怪談が関係するんですか?」と真顔で返す学生たちの反応が新鮮なと”ゐでした。でわでわ

2008年4月10日木曜日

古代文学会の連続シンポジウム

みなさまこんにちは。イノです。
これでうまく投稿できるかどうか、不安なのですが、今日は古代文学会の連続シンポジウムのお知らせです。
4月から7月まで、「神話を考える」という大きなテーマで毎月一回、シンポを開きます。イノも企画に関わっており、一昨年には、ほうじょうさんにもご登壇いただきました。
今年はまず、今週の土曜日(来月よりは第一土曜日になります)、ここのメンバーの、佐藤さんをお招きいたしました。

****
日 時 2008年4月12日(土) 午後2時~5時

場 所 共立女子大学 本館 2階 204教室
     
●地下鉄「神保町」駅下車A8出口から徒歩1分
      ●地下鉄「竹橋」駅下車1b出口から徒歩3分
      ●地下鉄「九段下」駅下車6番出口から徒歩5分
連続シンポジウム「神話を考える」
第1回 「神話とスピリチュアリティ」
―神話が人の心に対してもつ治癒作用について霊能者の現場から考える―

パネリスト(1) 佐藤 壮広 氏
題 目 共苦のスピリチュアリティ:沖縄の民間巫者の身体とシマの痛み
要 旨

 沖縄の民間巫者(ユタと呼ばれる)は、戦死者を生々しく語り、その痛みさえ身体に感受することがある。彼/彼女たちは、自身の心身不調を琉球・沖縄が歴 史的に受けてきた苦難と重ねる。そして、島々に点在する聖地を「つなぎ直す」拝みによって、自身の痛みを受容し克服しようとする。現在の沖縄本島の状況へ も共振し共苦する巫者の身体と、その症状を解釈し治癒へと向かわせるものを、事例を紹介しつつ考えてみたい。

パネリスト(2) 岡部 隆志 氏
題 目 極私的神話論 ―笙野頼子『金比羅』を読む―
要 旨

 笙野頼子の「金比羅」は不思議な小説である・・・(中略)・・・・・
 考えてみれば、本当は、神話的言説とは私的なところから生まれ、その私的なものを共同的なものに転換することで生まれるというものではなかったか。その 私的な神話が公共的ものに変換されたとき、私的な神話的言説は抑圧される。例えば、私的なシャーマンであるユタが、公的な制度から抑圧されるように。
 実は「癒し」というものは、この抑圧された私的なものの側にしかない。神話が「癒し」の機能を持つとすれば、その神話が私的な側にあるからだ。抑圧され た私的な位置にあることを拒絶せずに共同化することが「癒し」なのである。抑圧された側の私的神話は、公共的な側への通路を失っているわけではない。た だ、その通路を、他者と分かち合うための大事なツールとして秘かに抱えている。
 『金比羅』は、このツールを破天荒な極私的神話という語りで獲得している。従ってこの小説に共感を示し、この小説と共有し得る何かを感じたものがいたと すれば、この現代の「癒し」の必然性、例えば、自閉的であるとか孤独であるとか、そういう時代の病を背負いながら、既成の文体によっては自己を語れないあ るいは自己を見いだせない、そういうものたちのはずである。

司 会 津田 博幸 氏

***

岡部さんの「要旨」は破天荒に長いので抄出です。詳しくは、http://www.ne.jp/asahi/kodai/bungaku/reikai-annai.htm
でご覧くださいますよう。
ご案内がギリギリになってしまいましたが、お時間がとれましたなら、ぜひいらしてください。
なお、来月からのメニューは上記TOPから飛べます。コピーしたため、不必要に変わった字体になってしまいました。すみません!!





2008年4月3日木曜日

「縁起の東西」について

前略 しばらく「ほぼ週刊四谷会談」に目を通せなかったため、書き込みが大変遅れました。と”ゐさん、すみません。と言うか、昨年の春に一回、夏頃に一回書き込んだのみのような気がします。これでは四谷会談のメンバーとして失格かも・・・。
 さて、早稲田のシンポ「縁起の東西」についてですが、確かに縁起をめぐる日・印・欧の比較は興味深いものでしたね。「縁起」という語を仏教に由来するものとして、アジア以外の西欧文化圏のキリスト教聖人伝や教会創建譚にも、それを応用・普遍化させたことに対して(かなり厳しい口調)の疑義が呈されていましたが、重要な試みであったことは十分に評価されると思います。そして領域横断的な、或いは学際的な研究が叫ばれながらも、それはなかなかに困難ですが、挑んでゆかなくてはならないと改めて感じた次第です(四谷会談のメンバー各位には、今更、言うまでもないことですね)。またこの成果を一冊にまとめる際には、私も関わることになる予定ですので、その意味でも今回のシンポの射程を主体的に受けとめてゆく必要があります。
  「日欧と印との差がありすぎたように感じました。これが研究対象に起因するのか、研究主体(方法)に起因するのか・・・」ということについては、むろん双方に起因するのでしょうが、個人的には「主体(方法)」の問題であろうかと愚考します。シンポを聞きつつ、日本の寺院縁起・中国の寺院縁起・インドの寺院縁起・西欧の教会縁起(おかしな表現ですが)など異なる研究対象について、例えば「歴史学」といった共通の研究方法による分析結果を一同に提示した場合、どのようなシンポになったのかと、ふと思いました。宗教権力(寺院・教会)による在地の民衆統合とか、宗教勢力間の政治的抗争とか、縁起に刻まれた支配イデオロギーといった論点によって、それなりに容易に対話が成立したのではないでしょうか?もしそういうものであったならば、私はあまり関心を惹かれなかったかもしれません。
 以上、正に「雑感」でした・・・。

2008年3月31日月曜日

遅ればせながら:『季刊日本思想史』72号紹介

遅ればせながら、ではありますが、本会のすべてのテーマに関連するであろう雑誌の特集の紹介です。実は最近買いましたので、まだ読んでいません。書店で手に入りますので、直接ご購入ください。

○『季刊日本思想史』72号(2008年1月)「特集 近代日本と宗教学:学知をめぐるナラトロジー」
・磯前順一「〈日本の宗教学〉再考—学説史から学問史へ—」
・島薗進「宗教言説の形成と近代的個人の主体性—内村鑑三と清沢満之の宗教論と普遍的超越性—」
・池上良正「宗教学のなかの民俗・民衆宗教研究」
・林淳「宗教系大学と宗教学」
・鶴岡賀雄「吉満義彦の「近代日本カトリシズム」」
・全京秀「「宗教人類学」と「宗教民族学」の成立過程—赤松智城の学説史的意義についての比較検討—」
・臼杵陽「大川周明のイスラム研究—日本的オリエンタリストのまなざし—」
・高橋原「東京大学宗教学科の歴史—戦前を中心に—」
・岩田文昭「京都学派の宗教哲学と宗教思想」
・増澤知子「欧米における宗教学の課題—宗教と世俗性の位置づけ—」

そういえば、『史林』も一般発売開始しましたね。さっそくジュンク堂で購入しました。記憶関連の特集でした。

2008年3月28日金曜日

また今度

どゐです。moroさんが紹介されてます日曜の方法論懇話会、ご成功を祈念しております。当方は日本地理学会の大会へ顔を出し、そちらでの収穫を、今度お会いする際に披露したいと存じます。

2008年3月21日金曜日

あちこちで

と”ゐです。ほうじょうさん発表のモノケン・シンポは成功のようで、何よりでした。先日、早稲田大学高等研究所主催のシンポジウム「縁起の東西―聖人・奇跡・巡礼―」で、舩田さんにお会いしました。所用のため私はシンポを中座したので、できるなら舩田さんに当日の感想をエントリして頂きたいです。と”ゐとしましては、日・印・欧の比較は興味深かったものの、日欧と印との差がありすぎたように感じました。これが研究対象に起因するのか、研究主体(方法)に起因するのか、それが判明しなかったのがこれまた心残りでした。さらには、もう少し事前に調整できたであろう会場とのやりとりを(言うなれば強制的に)聞かされた点も、マイナスの印象です。公開を前提としないシンポであれば、そのようなやりとりも、さらにはパワーポイントの用い方の拙さも、発表時間を守らないことも、なるべく気にしないようにはするのですが……なので是非とも舩田さんには、見巧者としての評価をお願いしたいのでありますf(^_^;

ところで今月末には方法論2nd GIGが起動するようですね。成功を祈念しております。


【追記】コメント欄で紹介頂いた主催者側のお一人による当日の感想を拝読。「質問に立ったのは1人残らず知らない人」かぁ……それはお気の毒だったとしか言いようがありませんな(-.-;;でもそれだけ食い付き甲斐のあるシンポだったわけで。表現こそ違え、発表時間と(会場との)質疑応答について言及しているのは、認識が一致していると言えましょうか。1冊にまとまるとのことですが、そこで上述した「日欧と印との差」をどれだけ検討されるのか、期待したいところです。

2008年3月15日土曜日

平安貴族の夢分析

今日、たまたま書店で見つけました。まだ全然読んでないのですが、とりあえず書影だけでも:

2008年3月14日金曜日

物語研究会ミニシンポは明日です

と”ゐです。ほうじょうさんがすでに投稿されてますように、物語研究会のミニシンポが明日に迫りましたね。とても楽しみなのですが、現時点で推参できるか微妙なのですf(^^;とにかく成功を祈念しております。

2008年3月7日金曜日

東アジア宗教文化学会(仮称)ご紹介

と”ゐです。拙ブログで以前にちょっとだけ言及した新たな学術団体・東アジア宗教文化学会(仮称)が、日中韓それぞれから計75名となる呼びかけ人を取りまとめ、準備委員会による会員募集を始める手前まで来ました。母体である日韓宗教研究フォーラム以来、少々関与してますと”ゐとしましては、できる限り広範囲の交流を希望しますので、このブログ・メンバであるたとえばmoroさんや八戒さんそしてfunataさんやほうじょうさんなどにも、少しお気に留めて頂けますとありがたく存じます。「会員になって!」と勧誘したいところですが、そもそも会費やら会則やら細部については、と”ゐもまだまだ十全に理解してないのでf(^^;;とりあえずご紹介まで。

2008年3月2日日曜日

物語研究会ミニ・シンポ「亡霊とエクリチュール」

ご無沙汰しております。ようやく校務に余裕の出てきた北條です。
先週金曜の成城民俗学シンポには顔を出したかったのですが、やはり叶いませんでした。最近、学会・研究会等に参加することが困難になり、半ば引きこもりと化しています。困ったものです。

ところで、来る3/15(土)に明治大学にて、標記のとおりモノケンのシンポジウムが行われます。テーマは、コーディネーターの高木信さんらしく、「亡霊とエクリチュール」。私もパネリストの末席を汚しておりますが、方法論的猛者・論客ぞろいの会ですから少々恐れをなしています。基本概念等、充分復習して臨むつもりです。以下に呼びかけ文、報告要旨、タイムテーブルを載せておきますので、お手すきの方はお越しください。

【呼びかけ文】 高木 信
 怪異・不気味なもの・外部的なものを語ることによって、語る主体が変容していく、あるいは物語の構造や語りが変容していく様相を考えたいと思っています。言語の構造とパラレルな関係にある—意味するものと意味されるものの恣意的な関係としてある—亡霊というのが、僕の頭の中にあるのですが、できればそれを越え出て、不気味なものとして新たに見えてくる言語構造、物語のあり方みたいなところまで行ければと思っています。
 不気味なものの回帰(介入)によって引き起こされる日常空間(主体・言語・エクリチュール)の揺れ・破砕を捉えていけたらと思っております。外部性を受け止めるこちら側の変容・抵抗の発生は、そしてそれを表象することは、いかに可能か、あるいは不可能か。
 「亡霊」「怪異」「おぞまきしもの」の表象と、その表象が生み出す、日常の瓦解みたいなことを考えていけたらと思っております。
 この問題は、単に「日本文学(日本語による言説)の表現の問題」にとどまるのではなく、表象不可能性と表象の間で「いま—われわれ」に考えられることは何かということを明らかに出来たらと思っています。日本/文学/研究の言説は、「無気味なもの」「語り得ぬもの」を前にして、何が出来るのか?
 このような議論は、従軍慰安婦問題や靖国問題に限らず、まだまだ解決されていない歴史上の、そして現在の多くの問題(暴力・癒し・排除・戦争etc.)を考える上で重要な議論であり、またなぜかいつのまにかあやふやにされてしまっている感のある問題であると思います。「日本/文学/研究」発の思考が見つかればと思っています。ただ、政治的な思考や、歴史修正主義者たちの「物語り論」に直接触れる必要はないと思っています。それらと対峙する可能性や態度が、怪異を語るテクストを分析する中で立ち現れ、問題を深く思考できればと思っております。
 今回のシンポには、千里眼や催眠、妖怪、怪異をカルチュラルスタディーズ的な立場から分析しておられる一柳廣孝氏、外部性を導入することで軍記物語研究における理論的思考を続けておられる樋口大祐氏、言語論的転回以降の歴史学的思考を深化/進化させておられる北條勝貴氏、怪異の作家・秋成の研究を牽引しておられる長島弘明氏をパネラーとして迎え、コメンテーターには漢文日記を「文学テクスト」として読もうという中丸貴司氏、谷崎源氏の現代語訳の問題を扱うデリダリアンの西野厚司氏が来てくださいました。
 みなさまの多数のご参加と活発な議論を楽しみにしております。
 ちなみに、この問題に関する高木の立場は、以下のものを参照してください。
高木信[2007a]:「亡霊に取り憑かれたエクリチュール」(「国文学 2007年12月号」学燈社 2007年12月)
高木信[2007b]:「怨霊と亡霊と—〈亡霊〉に取り憑かれた軍記物語—」(一柳廣孝他編「ナイトメア叢書第5巻 霊はどこにいるのか」青弓社 2007年12月)
高木信[2008]:『平家物語・装置としての古典』(春風社 2008年3月)の第㈽部

【発表要旨】
1)「幽霊から心霊へ—近代日本における「霊」言説の変容をめぐって(仮題)」一柳廣孝
 明治から大正期に、日本の「霊」観念は大きな変容の波にさらされる。近世的な「幽霊」イメージから、西欧の科学的な心霊研究によって生じた「心霊」イメージへの移行である。本発表では、この間に発生したと思われる「霊」をめぐる言説の力学について報告する予定である。具体的には、西欧心霊学の移入にさいして中心的な役割を果たした、高橋五郎と渋江保の言説を主に取り扱うつもりでいる。
2)「 軍記文学における「亡霊」的なるもの」樋口大祐
 中世前期の日本列島には、世の転変を齎した諸事件の原因を、政争に敗れた死者の霊に起因させる認識枠組(=怨霊史観)が存在した。『平家物語』は内乱終息後、平家一門の「怨霊」の出現を予断し、その「鎮魂=鎮圧」に向けて構想されたといわれる。しかしテクストがより多く示唆するのは平家の「怨霊」ではなく、王法仏法共同体に危機を齎した清盛の「悪行」の記憶(=デリダの所謂「亡霊」的なるもの)を払拭できないでいることだ。
 一方、現在進行中の動乱の中で書かれた『太平記』は、怨霊(天狗)史観をアレゴリカルな記述によって解体する。そして、ついにはテクスト自ら、未曾有の世の転変を説明する言葉がない事態を承認するに至るのである。
 「蒙古襲来」を挟む一世紀間は、新たに「到来するもの」(デリダ)を王法仏法共同体の論理によって馴致しようとする動きが臨界に達し、その拘束力を急速に失い始めた時期として理解することが出来るのではないか。
3)「 死者の主体を語れるか—他者表象における想像力とジレンマ— (仮題)」北條勝貴
 言語論的転回以降の歴史学においては、〈テクスト外〉に依拠して支配的物語りを動揺させ、相対化・更新することこそ歴史学者の責務であると考えられるようになってきた。しかし一方で、外部を万能のブラックボックスとみなし、パラダイムの組み換え可能性を丸投げしてしまう傾向もみえる。それは、本来言語化を拒む周縁を〈境界〉や〈ケガレ〉、あるいは〈怪異〉と名付け、内部化する民俗的心理と同質の営みだろう。〈テクスト外〉を、外部性を保ったまま語ることはできないのか。失われた厖大な時間の流れに埋没し、対象として認識さえされてこなかった死者たち。彼らを物語りの主体とすることは可能なのか、またそれは要請されたとおりの救済に繋がるのか。このことは、高木信氏の提言する〈亡霊〉の位置づけとも関わってくる。列島社会の祖先崇拝、祟り神信仰の原型ともいうべき死者との関係を伝える、中国の先秦竹簡群を素材に考えてみたい。
〈参考文献〉
鹿島徹『可能性としての歴史—越境する物語り理論—』岩波書店、2006年
野家啓一『歴史を哲学する』岩波書店、2007年
拙稿「主体を問う、実存を語る—文学/歴史学の論争と共通の課題—」『国文学 解釈と教材の研究』52-5、2007年
4)「『雨月物語』と怪異(仮題)」長島弘明
 上田秋成の『雨月物語』に登場する亡霊や怨霊たちを、「分身」や「多義性」等々のいくつかのことばを手がかりに読み解いてみたい。『雨月物語』九話に登場する幽霊や妖怪・精霊たちはもとより一様ではないが、そのほとんどが、出現する相手(幽霊の姿を目撃する相手)との間になにがしかの有意な関係を持っている。その関係とはどのようなものか、また彼岸にいる亡霊のことばと、此岸にいる生者のことばはどのように交錯し、また乖離しているか、そのあたりを中心に話をしたい。
●コメンテーター  中丸貴司氏  西野厚志氏

【進行予定】
13:00〜 高木信「ミニシンポ「亡霊とエクリチュール」について」(5分)
13:05〜 一柳廣孝氏「幽霊から心霊へ—近代日本における「霊」言説の変容をめぐって(仮題)」(30分程度)
13:35〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
13:40〜 樋口大祐氏「軍記文学における「亡霊」的なるもの」(30分程度)
14:10〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
14:15〜 休憩 15分
14:30〜 北條勝貴氏「死者の主体を語れるか—他者表象における想像力とジレンマ—」(30分程度)
15:00〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
15:05〜 長島弘明氏 「『雨月物語』と怪異(仮題)」(30分程度)
15:35〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
15:40〜 休憩 20分
16:00〜 コメンテーター(中丸貴司氏・西野厚志氏)より 各10分
16:20〜 パネラーからの応答および他のパネラーへの質疑と応答 各5分
16:40〜 パネラーとコメンテーター間での議論 10分程度
16:50〜 フロアーを交えてのディスカッション

2008年2月29日金曜日

日本民俗学会談話会(=研究例会)のご案内

子どもの頃、とても特別な日だと思っていた2月29日ですが、何ということもなく過ごしたことに、齢を重ねたと感じると”ゐです(^^;さて来週の日曜9日なんですけども、もしも午後お時間がありましたら、成城大学まで足を伸ばしていただけませんか?じつは次回の日本民俗学会談話会(=研究例会)が、民俗学関係卒業論文発表会なんです。昨年に続き、今年も一人送り込むことができたのですが、当該学生はもちろんのこと、民俗学会全般についても是非ともご意見頂戴したく、ご案内します。

2008年2月22日金曜日

では行ってきます

と”ゐです。明日から鹿児島です。一週間前の沖縄・摩文仁とはまた全然違う「戦後」そして「死者」と遭遇できそうです。では行ってきます。

2008年2月15日金曜日

では行ってきます

この時期の沖縄の天気は悪いとのことですが。。。とりあえず合羽を用意して向かうと”ゐです。では行ってきます。

2008年2月8日金曜日

あらかじめ

先だ先だと思っていた異界研も気がつけば十日後に迫り、はてさてどうやってまとめたものかと思案中のと”ゐです。来週末は沖縄・摩文仁での催しに参与観察してきます。金曜に沖縄へ移動、土・日に活動して、月曜の午後便で羽田着予定。ですから異界研は来週木曜までにまとめておかねばならないわけですが……摩文仁で何かしら示唆を受けそう(^^;なので、月曜の異界研では一人テンションが違うかもしれませんが、なにとぞヨロシク<(_ _)>

2008年2月1日金曜日

塞翁が馬

と”ゐです。ほうじょうさん、『幽』について無理矢理感想頂戴してスミマセン<(_ _)>

さて以前のエントリで紹介した明治サイエンス事件帖の再放送、順調?に国会中継のおかげで延期・延期。。。でもそのおかげで思わぬ人に会うことができました。ことの顛末は次の通り。
と”ゐはこの録画を教材として使う予定ですので、勤務先の図書館にあるAV機器コーナを利用してます。ただしちょっと前の機材ですので、編集やらダビングやらに少々時間がかかるので、その合間あいまに司書さんの控え室にお邪魔してます。この控え室、学生たちが卒業後もしばしば遊びに来ており、本日もひとりの卒業生が来室しておりました。彼は現在、京都府南部で宮大工見習いをしており、お互いにまさか図書館の司書控え室で遭遇するとは思っていなかったわけで、これぞ再放送延期の賜物?!と一人合点してました(^^;


ところで本日帰宅したら『GYRATIV@』第4号が届いていて、あぁ本当に終わったんだなぁとしみじみしているところです。

2008年1月26日土曜日

金曜の夜:サブカル怪異について本屋で妄想する

いや、いつものことながら、このブログをと”ゐさんに任せきりにしてしまっていて申し訳ないことです。『幽』の「近未来大黒市篇」も面白かったですよ(文章もきれいでした)。フィールドワークをやりたい!という学生に、ひとつのメガネとして授けたいものです。

昨日は日本史特講(古代史)の最後の講義でした。中臣鎌足の表象が、各時代の政治的要請に伴って変質してゆく様子を半期かけて論じたのですが(メインは、「大織冠伝」における『周易』との関係)、最後の単元は幸若舞「入鹿」にみられる2つの特徴、なぜ入鹿を誅滅する装具が「鎌」になったのか、なぜその鎌をもたらす存在が「狐」なのかを考察するものでした。ま、最終的にはダキニ天を主尊とする輪王潅頂へ話を持っていったのですが...まあそれなりにきれいに風呂敷を畳めたのではないかと自分を慰めています。

帰宅途中、いつも京浜東北線に乗り換える神田駅で降りて、駅のすぐ近くにあるブックファーストへ寄りました。数年前に出来たのは知っていたのですが、今まで一度もいったことがなかったのです。何か軽いものを買いたいけれども、新宿でジュンク堂にゆくのも、東京で八重洲ブックセンターへゆくのも億劫だな...と考えて、その存在を想い出したわけです。ちょっと寄って物色するにはちょうどよい広さで、怪異関係では下記のものを仕入れました。
『華音』はしばらく確認していないうちに2冊を重ねており、8月号を今になって入手。怪談自体を特集するというより、怪異の創造に関わる人々のインタビューが中心です(円朝をライフワークにしている桂歌丸や中田秀夫など)。別役実の『もののけづくし』は、去年文庫化されていたのですね。やっぱり京極妖怪論より説得的だなあ。中学生のときにアニメ『銀河鉄道の夜』の脚本家として認知して以来のファンで、芝居もときどき観にいっていますが、やはりこのひとの目線は尋常じゃないと再認識しました。そうそう、毎週買っている『週刊金曜日』もここで購入したのですが、映画評は『28週後...』!で、なかなかの高評価でしたよ。今年は敬愛するリチャード・マシスンの名作『アイ・アム・レジェンド』もリメイクされていたし、ゾンビ映画が復活の兆なんでしょうか。『サイレント・ヒル』にしろ『バイオ・ハザード』にしろ、ゾンビ映画ですもんね。飽きっぽいハリウッドがもはやアジア風ゴースト映画を消費し尽くし、昔ながらの怪奇映画を復活させる方向へ変わってきたということか。次は『死霊のはらわた』かな?などと要らぬ妄想をしていたら、流行の翻訳ファンタジーが陳列されている棚のなかに、『アルハザード』なる小説が...!とうとうそんなものを書いちゃった人がいるんだなあ。確かに最近はクトゥルー神話の露出度が増えてきて、神話大系の再編集版は刊行されるし、「栞と紙魚子」はドラマ化されるし...。小中和哉なんか、『ウルトラマン』も『ジャイアント・ロボ』もみんなクトゥルー神話にしてしまって、ちょっと食傷気味の感がある。『ラヴクラフト全集』の別巻も出たことだし、『ネクロノミコン』がいかに誕生したのかを真面目に語る作品があってもいいのでしょうね。しかし、シャーマニズムだ呪術実践だという一人文学の風潮のなかでも、『ネクロノミコン』を核にクトゥルー神話を再構築しよう!なんていうアイディアはどこからも起こらなかったですね。やっぱり究極のマイナーなのか、ま、それもラヴクラフトらしいけれども。

以上、まったくの雑感にブログを使ってしまって済みません。

2008年1月25日金曜日

井上円了と哲学堂公園

週明け火曜1月29日~金曜2月1日のそれぞれ午前10:05~10:30に再放送予定だという明治サイエンス事件帖を心待ちにしていると”ゐです。初回は「妖怪ハンター」こと井上円了さんについて紹介されるのですけれども、もう少し暖かくなったならば、皆さんと哲学堂公園を訪れたいものです。養老天命反転地訪問に際しては「身体が反転する以上に言葉が蠢く場所」と書きましたけれども、哲学堂はさてどうなることでしょうか。

2008年1月18日金曜日

新宗教イメェヂとか何とか

島田裕巳『日本の10大新宗教』幻冬舎新書が10万部を突破したと、筆者ご自身のブログで書かれてまして、案外と需要があるモノだと感心していると”ゐです。とはいえはてな?でもエントリしたのですが、その需要のされ方とゆーかズレとゆーかが違和感あるままです。私は理解アル方々つまりは皆様方(笑)とやりとりする分には違和感なく「宗教」を用いて会話が成立するのですが(だからこそかつてこんなやりとりも可能になったわけですが)いわゆる世間一般の人びと(勤務先の同僚を含む)と会話する際「宗教」を持ち出した途端に通信遮断なぞごくごくよくあることです。
真怪とかを考えようとする場合、と”ゐが感じるこのようなズレは、むしろ抱えたままにしておくべきなんだろーなぁと感じている次第です。

2008年1月11日金曜日

『文化人類学』72-3

ここへ集うメンバ相互の越境的交渉のために、専門雑誌の紹介を提案しましたと”ゐによる第二弾です。
今回の『文化人類学』は、「論文」2本・「書評」3本とは別に、「<特集>人類学的フィールドワークとは何か」の枠内として、「論文」2本・「研究ノート」1本・「資料と通信」1本・「書評」4本という、通常あまりみられない構成となっています。とくにこの「書評」は、近年出版された人類学的フィールドワーク入門書の総浚え、的様相を呈しています。取り上げた本の一覧ははてなの方で紹介しましたので参照ください。

2008年1月4日金曜日

今年の目標

のひとつとして、このブログの有効活用を提案し実践すること、を掲げたいと”ゐです。本年もどうぞよろしくお願いします<(_ _)>