何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2007年4月12日木曜日

観仏信仰と夢 (1)

「ほぼ日刊」のはずなのに、早くも間があいてしまいました (^_^;; 埋め草に私(師)が関心を持っている夢見関連の領域である、観仏信仰についてちょっとだけ。

私は元々夢に関心があったわけではなく、仏教、特に唯識思想な人たちの神秘体験を探しているうちに、観仏信仰にたどり着き、そこで夢見に出会ったのでした。観仏信仰とは、その名の通り、仏や菩薩の姿を目覚めているときであれ寝ているときであれ見る、会うということを積極的に求め、実現にむけて何らかの実践をする信仰のことです。直接見たりしなくても、仏像とか絵画とかで仏・菩薩の姿を表現したり、その前で何らかの儀礼を行ったりするというのも、広い意味での観仏信仰に入ります。

そもそもなぜ唯識な人たちの神秘体験に興味を持ったかというと、大きく分けて二つあります。

  1. 唯識思想が「学問仏教」とか「仏教の基礎学」とか言われているのが気に食わなかった。
    • 昔の人にとっては、「学問」だって宗教的実践だったかもしれないじゃん。
    • そもそも「学問」的な部分しか見てこなかったんじゃないの?
  2. 仏教者としての先天的素質があるとする唯識学派の所謂“五姓各別説”について、ちゃんと考えたかった。
    • すべての人に素質がある=平等って、本当に平等なんでしょうか?
    • 「すべての人が仏になれる」=仏教というのはいかがなものか。一部の人しか救われない、なんて宗教はいっぱいあるんですけど。
どちらも宗教者の体験とか実践とかについて考えたいという問題意識の一環であり、もっと風呂敷を広げれば「外在化(≒神秘体験、歴史叙述、書記行為一般 etc.)による自己書き換えの問題系」ということになる(ということに最近気づいた)のですが、それについては別の機会に。

観仏体験については、山部能宜さんの諸研究が決定的に重要なので、とりあえずリストアップしておきます。
  • Nobuyoshi Yamabe. The Sūtra on the Ocean-Like Samādhi of the Visualization of the Buddha: The Interfusion of the Chinese and Indian Cultures in Central Asia as Reflected in a Fifth Century Apocryphal Sūtra. PhD thesis, Yale University, 1999.
  • 山部能宜「『梵網経』における好相行の研究—特に禅観経典との関連性に注目して—」(『北朝隋唐中国仏教思想史』、法蔵館、2000年)
(続く)

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