何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2008年4月25日金曜日

東アジア宗教文化学会

と”ゐです。以前のエントリでもちょこっとご紹介しました、東アジア宗教文化学会(仮称)なる学術団体が、この夏、韓国・釜山の東西大学校で開催される創立大会に向けて、具体的に動き出しました。管見の限りで類似の諸団体と比較した特徴を挙げますと、(スタート時点ですでに)日本・中国・韓国三カ国からなる国際的学術団体であること(この点は「東アジア」の名に恥じないかと思います)と、いわゆる宗教研究者のみならず、教学研究者も重要なメンバであることかと存じます。
なお大会の参加受付は5月18日(日)までとなっております。大会日程概略は、8月1日に現地入り・2日朝から3日昼まで学術大会・3日昼から4日にかけて見学旅行(海軍士官学校内の宗教施設・地域の天理教・SGI)の予定です。
すでに個別にはご案内が届いた方もおられるかと思いますが、ご興味ありましたら是非と”ゐまでメールください。折り返し参加費など関連ファイルを沿えたご説明メールいたします。

2008年4月23日水曜日

古代文学会連続シンポジウム2回めのお知らせ

こんにちは。イノです。
古代文学会の連続シンポ、二回目のお知らせです。

今回は学会外から中世文学(和歌、説話、宗教芸文)の小川豊生氏をお迎えいたします。
「中世神学のメチエー『天地霊覚秘書』を読む」『「偽書」の生成ー中世的思考と表現』森話社、など、日本中世の宗教的な言説を含む膨大で混沌とした言説世界に分け入り、解析されている方です。
「創作」の概念とはまったく違う、「建立」という語への注目、とても興味深いです。(神話は寺院建築や仏像・仏画と同じように「建立」される?佐藤さんが示唆された、神話と空間・場所との関係を別の角度から考えることになる?)
会員の山口敦司さんは奈良時代の日本における仏典注釈、奈良時代の僧たちが読んだであろう漢籍類(冥報記などなど!)を視野に入れつつ、『日本霊異記』の研究をされています。

連休の中日ですが、みなさま、ぜひいらしてください。
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日 時 2008年5月3日(土) 午後2時~5時場 所 共立女子大学 本館 2階 204教室
     ●地下鉄「神保町」駅下車A8出口から徒歩1分
      ●地下鉄「竹橋」駅下車1b出口から徒歩3分
      ●地下鉄「九段下」駅下車6番出口から徒歩5分 

連続シンポジウム「神話を考える」第2回
 「仏教と神話」―カノン(聖典)とメチエ(技法)としての注釈が織りなす神学の体系。―

パネリスト(1) 小川 豊生 氏
題 目 日本における「霊性」の起源と神学のメチエ
要 旨
 周知のように、鈴木大拙は昭和19年、敗戦の必至を自覚しつつ『日本的霊性』を書き、そこで「日本的霊性なるものは、鎌倉時代で初めて登場した」という命題をたて、「霊性的日本の建設」を宣揚した。時期を接して折口信夫は「神道宗教化の意義」や「宮廷生活の幻想」などにおいて、「神話は神学の基礎である。…神学の為に神話はある」と、日本における神学の組織化の必要を説いた。鈴木や折口がここで主張する「霊性」の自覚や「神学」の創出というテーマは、最近もなお新たな角度から議論の対象となっているが、ここではこうした議論をより確かなものへと押し進めるための前提として、鈴木や折口が視野に入れることのなかった、中世の人々の「霊性」の受容や「神学」の実践について検証してみたいと思う。
 最近の古代文学会が掲げる「霊性論」というテーマに資するためにも、いきなり「古代日本の霊性」へと遡るのでなく、まず中世の人々が「霊性」をいかなるものとして具体的に把握していたか、その霊性を通じて古代の神話をいかに作り変え、「神学」として変成していったのか、といった問題を考えるべきだと思う。
 またここでは、神話や神学の再編・創造を指し示す概念として「建立」という用語にもあらたに着目してみたい。古代・中世において、「神話づくり」や「神学の組織化」の意義に該当する適切な用語を求めるとすれば、「建立」という用語がふさわしいのではないか。中世の神話関係のテキストのうちには、「吾朝の建立」あるいは「三界の建立」「世界建立」といった言葉がしばしば登場する。
 「建立」という語自体はむろん遡ればきりがなく、また用例も広範囲にわたるが、中世日本の用例をみていくと、この語はある独特の位相を内包しているように思われる。とくに神話の考察において、「建立」という言葉は、いろいろな問題に波及させうる有効な「操作概念」として機能するだろう。そもそも神話は「霊性の語り」によるものであって、神話には作者はいない。神話は「創造」や「制作」「構築」といった近代の概念ではとらえることができないが、この古代や中世における「神話づくり」の特異な位相を「建立」の語の導入によって見出すことはできないか。いくつかの具体的な事例を取り上げて考えてみたいと思う。

パネリスト(2) 山口 敦史 氏
題 目 「蘇民将来」の〈神話〉と経典
要 旨
 「蘇民将来」の伝承には謎が多い。『釈日本紀』や卜部兼方自筆『日本書紀神代巻』等に「備後国風土記」として収録されており、これが奈良時代成立の所謂「古風土記」か否かについては議論がある。  
 この伝承は形を変えて『ホ(竹+甫+皿)キ(竹+艮+皿)内伝』『神道集』等に表れ、牛頭天王信仰や祇園信仰などと結びつく。そこには陰陽道・神道・密教・中国神話など、神学体系に裏打ちされた〈偽経〉が作製され、導入される。
 本発表では、古代から中世にかけて〈起源〉のために〈神学〉が形成される知的営為について考察する。

司 会 吉田 修作 氏

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(太字、改行はイノによります)

2008年4月18日金曜日

より上質なモノを!

今週もまた金曜にエントリできることのありがたさを痛切に感じていると”ゐです。さてひょんなことで宮内庁での雅楽演奏会を観覧する機会を得たのですが、やはり上質のナマは全然違いますね!とくに篳篥ですが、音が丸いというか太いというか何とも形容しがたいのですけども、レベルの違いを思い知らされた……別にと”ゐは演奏家ではないんですけどもf(^_^;いろいろな意味で、より高みを目指さねば!と感じた次第です。

2008年4月11日金曜日

明日12日、古代文学会4月例会ですね!

と”ゐです。先にイノさんがご紹介された古代文学会の4月例会は学会サイトの例会案内頁へリンク貼っておきますね。天気も落ち着きそうだし、拝聴させていただこうかなぁ……ところでBShiにて24火(木)20時から2時間弱、ハイビジョン特集フロンティア「異界百物語〜Jの秘密を探る〜」なる番組が放映されるとのこと。このメンバの皆さんには、「あぁ関連する話題だよね〜」と首肯くださると思いますが、「え?なんで神話と怪談が関係するんですか?」と真顔で返す学生たちの反応が新鮮なと”ゐでした。でわでわ

2008年4月10日木曜日

古代文学会の連続シンポジウム

みなさまこんにちは。イノです。
これでうまく投稿できるかどうか、不安なのですが、今日は古代文学会の連続シンポジウムのお知らせです。
4月から7月まで、「神話を考える」という大きなテーマで毎月一回、シンポを開きます。イノも企画に関わっており、一昨年には、ほうじょうさんにもご登壇いただきました。
今年はまず、今週の土曜日(来月よりは第一土曜日になります)、ここのメンバーの、佐藤さんをお招きいたしました。

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日 時 2008年4月12日(土) 午後2時~5時

場 所 共立女子大学 本館 2階 204教室
     
●地下鉄「神保町」駅下車A8出口から徒歩1分
      ●地下鉄「竹橋」駅下車1b出口から徒歩3分
      ●地下鉄「九段下」駅下車6番出口から徒歩5分
連続シンポジウム「神話を考える」
第1回 「神話とスピリチュアリティ」
―神話が人の心に対してもつ治癒作用について霊能者の現場から考える―

パネリスト(1) 佐藤 壮広 氏
題 目 共苦のスピリチュアリティ:沖縄の民間巫者の身体とシマの痛み
要 旨

 沖縄の民間巫者(ユタと呼ばれる)は、戦死者を生々しく語り、その痛みさえ身体に感受することがある。彼/彼女たちは、自身の心身不調を琉球・沖縄が歴 史的に受けてきた苦難と重ねる。そして、島々に点在する聖地を「つなぎ直す」拝みによって、自身の痛みを受容し克服しようとする。現在の沖縄本島の状況へ も共振し共苦する巫者の身体と、その症状を解釈し治癒へと向かわせるものを、事例を紹介しつつ考えてみたい。

パネリスト(2) 岡部 隆志 氏
題 目 極私的神話論 ―笙野頼子『金比羅』を読む―
要 旨

 笙野頼子の「金比羅」は不思議な小説である・・・(中略)・・・・・
 考えてみれば、本当は、神話的言説とは私的なところから生まれ、その私的なものを共同的なものに転換することで生まれるというものではなかったか。その 私的な神話が公共的ものに変換されたとき、私的な神話的言説は抑圧される。例えば、私的なシャーマンであるユタが、公的な制度から抑圧されるように。
 実は「癒し」というものは、この抑圧された私的なものの側にしかない。神話が「癒し」の機能を持つとすれば、その神話が私的な側にあるからだ。抑圧され た私的な位置にあることを拒絶せずに共同化することが「癒し」なのである。抑圧された側の私的神話は、公共的な側への通路を失っているわけではない。た だ、その通路を、他者と分かち合うための大事なツールとして秘かに抱えている。
 『金比羅』は、このツールを破天荒な極私的神話という語りで獲得している。従ってこの小説に共感を示し、この小説と共有し得る何かを感じたものがいたと すれば、この現代の「癒し」の必然性、例えば、自閉的であるとか孤独であるとか、そういう時代の病を背負いながら、既成の文体によっては自己を語れないあ るいは自己を見いだせない、そういうものたちのはずである。

司 会 津田 博幸 氏

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岡部さんの「要旨」は破天荒に長いので抄出です。詳しくは、http://www.ne.jp/asahi/kodai/bungaku/reikai-annai.htm
でご覧くださいますよう。
ご案内がギリギリになってしまいましたが、お時間がとれましたなら、ぜひいらしてください。
なお、来月からのメニューは上記TOPから飛べます。コピーしたため、不必要に変わった字体になってしまいました。すみません!!





2008年4月3日木曜日

「縁起の東西」について

前略 しばらく「ほぼ週刊四谷会談」に目を通せなかったため、書き込みが大変遅れました。と”ゐさん、すみません。と言うか、昨年の春に一回、夏頃に一回書き込んだのみのような気がします。これでは四谷会談のメンバーとして失格かも・・・。
 さて、早稲田のシンポ「縁起の東西」についてですが、確かに縁起をめぐる日・印・欧の比較は興味深いものでしたね。「縁起」という語を仏教に由来するものとして、アジア以外の西欧文化圏のキリスト教聖人伝や教会創建譚にも、それを応用・普遍化させたことに対して(かなり厳しい口調)の疑義が呈されていましたが、重要な試みであったことは十分に評価されると思います。そして領域横断的な、或いは学際的な研究が叫ばれながらも、それはなかなかに困難ですが、挑んでゆかなくてはならないと改めて感じた次第です(四谷会談のメンバー各位には、今更、言うまでもないことですね)。またこの成果を一冊にまとめる際には、私も関わることになる予定ですので、その意味でも今回のシンポの射程を主体的に受けとめてゆく必要があります。
  「日欧と印との差がありすぎたように感じました。これが研究対象に起因するのか、研究主体(方法)に起因するのか・・・」ということについては、むろん双方に起因するのでしょうが、個人的には「主体(方法)」の問題であろうかと愚考します。シンポを聞きつつ、日本の寺院縁起・中国の寺院縁起・インドの寺院縁起・西欧の教会縁起(おかしな表現ですが)など異なる研究対象について、例えば「歴史学」といった共通の研究方法による分析結果を一同に提示した場合、どのようなシンポになったのかと、ふと思いました。宗教権力(寺院・教会)による在地の民衆統合とか、宗教勢力間の政治的抗争とか、縁起に刻まれた支配イデオロギーといった論点によって、それなりに容易に対話が成立したのではないでしょうか?もしそういうものであったならば、私はあまり関心を惹かれなかったかもしれません。
 以上、正に「雑感」でした・・・。