何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2008年3月2日日曜日

物語研究会ミニ・シンポ「亡霊とエクリチュール」

ご無沙汰しております。ようやく校務に余裕の出てきた北條です。
先週金曜の成城民俗学シンポには顔を出したかったのですが、やはり叶いませんでした。最近、学会・研究会等に参加することが困難になり、半ば引きこもりと化しています。困ったものです。

ところで、来る3/15(土)に明治大学にて、標記のとおりモノケンのシンポジウムが行われます。テーマは、コーディネーターの高木信さんらしく、「亡霊とエクリチュール」。私もパネリストの末席を汚しておりますが、方法論的猛者・論客ぞろいの会ですから少々恐れをなしています。基本概念等、充分復習して臨むつもりです。以下に呼びかけ文、報告要旨、タイムテーブルを載せておきますので、お手すきの方はお越しください。

【呼びかけ文】 高木 信
 怪異・不気味なもの・外部的なものを語ることによって、語る主体が変容していく、あるいは物語の構造や語りが変容していく様相を考えたいと思っています。言語の構造とパラレルな関係にある—意味するものと意味されるものの恣意的な関係としてある—亡霊というのが、僕の頭の中にあるのですが、できればそれを越え出て、不気味なものとして新たに見えてくる言語構造、物語のあり方みたいなところまで行ければと思っています。
 不気味なものの回帰(介入)によって引き起こされる日常空間(主体・言語・エクリチュール)の揺れ・破砕を捉えていけたらと思っております。外部性を受け止めるこちら側の変容・抵抗の発生は、そしてそれを表象することは、いかに可能か、あるいは不可能か。
 「亡霊」「怪異」「おぞまきしもの」の表象と、その表象が生み出す、日常の瓦解みたいなことを考えていけたらと思っております。
 この問題は、単に「日本文学(日本語による言説)の表現の問題」にとどまるのではなく、表象不可能性と表象の間で「いま—われわれ」に考えられることは何かということを明らかに出来たらと思っています。日本/文学/研究の言説は、「無気味なもの」「語り得ぬもの」を前にして、何が出来るのか?
 このような議論は、従軍慰安婦問題や靖国問題に限らず、まだまだ解決されていない歴史上の、そして現在の多くの問題(暴力・癒し・排除・戦争etc.)を考える上で重要な議論であり、またなぜかいつのまにかあやふやにされてしまっている感のある問題であると思います。「日本/文学/研究」発の思考が見つかればと思っています。ただ、政治的な思考や、歴史修正主義者たちの「物語り論」に直接触れる必要はないと思っています。それらと対峙する可能性や態度が、怪異を語るテクストを分析する中で立ち現れ、問題を深く思考できればと思っております。
 今回のシンポには、千里眼や催眠、妖怪、怪異をカルチュラルスタディーズ的な立場から分析しておられる一柳廣孝氏、外部性を導入することで軍記物語研究における理論的思考を続けておられる樋口大祐氏、言語論的転回以降の歴史学的思考を深化/進化させておられる北條勝貴氏、怪異の作家・秋成の研究を牽引しておられる長島弘明氏をパネラーとして迎え、コメンテーターには漢文日記を「文学テクスト」として読もうという中丸貴司氏、谷崎源氏の現代語訳の問題を扱うデリダリアンの西野厚司氏が来てくださいました。
 みなさまの多数のご参加と活発な議論を楽しみにしております。
 ちなみに、この問題に関する高木の立場は、以下のものを参照してください。
高木信[2007a]:「亡霊に取り憑かれたエクリチュール」(「国文学 2007年12月号」学燈社 2007年12月)
高木信[2007b]:「怨霊と亡霊と—〈亡霊〉に取り憑かれた軍記物語—」(一柳廣孝他編「ナイトメア叢書第5巻 霊はどこにいるのか」青弓社 2007年12月)
高木信[2008]:『平家物語・装置としての古典』(春風社 2008年3月)の第㈽部

【発表要旨】
1)「幽霊から心霊へ—近代日本における「霊」言説の変容をめぐって(仮題)」一柳廣孝
 明治から大正期に、日本の「霊」観念は大きな変容の波にさらされる。近世的な「幽霊」イメージから、西欧の科学的な心霊研究によって生じた「心霊」イメージへの移行である。本発表では、この間に発生したと思われる「霊」をめぐる言説の力学について報告する予定である。具体的には、西欧心霊学の移入にさいして中心的な役割を果たした、高橋五郎と渋江保の言説を主に取り扱うつもりでいる。
2)「 軍記文学における「亡霊」的なるもの」樋口大祐
 中世前期の日本列島には、世の転変を齎した諸事件の原因を、政争に敗れた死者の霊に起因させる認識枠組(=怨霊史観)が存在した。『平家物語』は内乱終息後、平家一門の「怨霊」の出現を予断し、その「鎮魂=鎮圧」に向けて構想されたといわれる。しかしテクストがより多く示唆するのは平家の「怨霊」ではなく、王法仏法共同体に危機を齎した清盛の「悪行」の記憶(=デリダの所謂「亡霊」的なるもの)を払拭できないでいることだ。
 一方、現在進行中の動乱の中で書かれた『太平記』は、怨霊(天狗)史観をアレゴリカルな記述によって解体する。そして、ついにはテクスト自ら、未曾有の世の転変を説明する言葉がない事態を承認するに至るのである。
 「蒙古襲来」を挟む一世紀間は、新たに「到来するもの」(デリダ)を王法仏法共同体の論理によって馴致しようとする動きが臨界に達し、その拘束力を急速に失い始めた時期として理解することが出来るのではないか。
3)「 死者の主体を語れるか—他者表象における想像力とジレンマ— (仮題)」北條勝貴
 言語論的転回以降の歴史学においては、〈テクスト外〉に依拠して支配的物語りを動揺させ、相対化・更新することこそ歴史学者の責務であると考えられるようになってきた。しかし一方で、外部を万能のブラックボックスとみなし、パラダイムの組み換え可能性を丸投げしてしまう傾向もみえる。それは、本来言語化を拒む周縁を〈境界〉や〈ケガレ〉、あるいは〈怪異〉と名付け、内部化する民俗的心理と同質の営みだろう。〈テクスト外〉を、外部性を保ったまま語ることはできないのか。失われた厖大な時間の流れに埋没し、対象として認識さえされてこなかった死者たち。彼らを物語りの主体とすることは可能なのか、またそれは要請されたとおりの救済に繋がるのか。このことは、高木信氏の提言する〈亡霊〉の位置づけとも関わってくる。列島社会の祖先崇拝、祟り神信仰の原型ともいうべき死者との関係を伝える、中国の先秦竹簡群を素材に考えてみたい。
〈参考文献〉
鹿島徹『可能性としての歴史—越境する物語り理論—』岩波書店、2006年
野家啓一『歴史を哲学する』岩波書店、2007年
拙稿「主体を問う、実存を語る—文学/歴史学の論争と共通の課題—」『国文学 解釈と教材の研究』52-5、2007年
4)「『雨月物語』と怪異(仮題)」長島弘明
 上田秋成の『雨月物語』に登場する亡霊や怨霊たちを、「分身」や「多義性」等々のいくつかのことばを手がかりに読み解いてみたい。『雨月物語』九話に登場する幽霊や妖怪・精霊たちはもとより一様ではないが、そのほとんどが、出現する相手(幽霊の姿を目撃する相手)との間になにがしかの有意な関係を持っている。その関係とはどのようなものか、また彼岸にいる亡霊のことばと、此岸にいる生者のことばはどのように交錯し、また乖離しているか、そのあたりを中心に話をしたい。
●コメンテーター  中丸貴司氏  西野厚志氏

【進行予定】
13:00〜 高木信「ミニシンポ「亡霊とエクリチュール」について」(5分)
13:05〜 一柳廣孝氏「幽霊から心霊へ—近代日本における「霊」言説の変容をめぐって(仮題)」(30分程度)
13:35〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
13:40〜 樋口大祐氏「軍記文学における「亡霊」的なるもの」(30分程度)
14:10〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
14:15〜 休憩 15分
14:30〜 北條勝貴氏「死者の主体を語れるか—他者表象における想像力とジレンマ—」(30分程度)
15:00〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
15:05〜 長島弘明氏 「『雨月物語』と怪異(仮題)」(30分程度)
15:35〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
15:40〜 休憩 20分
16:00〜 コメンテーター(中丸貴司氏・西野厚志氏)より 各10分
16:20〜 パネラーからの応答および他のパネラーへの質疑と応答 各5分
16:40〜 パネラーとコメンテーター間での議論 10分程度
16:50〜 フロアーを交えてのディスカッション

2 件のコメント:

と”ゐ さんのコメント...

と”ゐも結局欠席した「先週金曜の成城民俗学シンポ」ですけども、人伝にうかがうと、どうも腹立たしい結果になった様子ですf(^^;;やはり人選が・・・・・・

HOJO さんのコメント...

腹立たしい!とはかえって興味をそそりますね。人選か...なんか、気楽に発言できない雰囲気が漂っているのでコメントは控えます。おそろしや。