何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2007年6月30日土曜日

備忘録:愛と銭

 二松学舎大学の人文学会第九五回大会の記念講演で、中沢新一さんが「国文学と人類学」というお話をされました。最初の20分は聞いてませんが、旧石器と新石器の違いについて話されていたようです。
 内容はだいたい以下の通りでした。

  1. 万葉集の「伊香保ろの八尺の堰に立つ虹の、あろはろ迄も、さねをさねてば」を取り上げて折口信夫の議論にもとづきつつ、前半の自然の世界と後半の人間(性愛)の世界を「虹」という比喩が一つに結んでいる。
  2. 比喩とは異なる二つの世界を一つに結ぶ蝶番のようなもので、共同体外部に排除された異質、過剰な力をもつものを導入する。=詩的言語
  3. この異質から持ち込まれた力による言葉の活性化が文学の発生であり、この比喩は客人神と同じ働きをしている。
  4. ところで、虹は性愛と関係が深いのは人類学的知見からするとけっこう普遍的。『詩経』にも虹による性愛のメタファーが認められる。目加田誠訳を引用(「南山朝隮」)。
  5. そもそも虹はアボリジニの虹の蛇の信仰にあるよう、現実世界の外、言語を絶したドリームタイムの現実に残されたかけらである。アボリジニはアフリカを9万年前に離れてから流れ流れてオーストラリアにたどりついてきたので、人類最初期の神話が残されている。
  6. 人間にもドリームタイムのかけらは残されていて、それは言葉の支配する昼に対する夜の世界、夢や言葉を必要としないコミュニケーションの性愛である。
  7. さて、虹の蛇は雨期の前に天に昇って雨を降らすとされる。つまり豊穣をもたらすもの=富の源泉である。旧石器時代においては雨期をはじめるものとしてそこいらの水たまりの底にいたが、農耕がはじまった新石器時代においてはすみかを水源地へと移した。
  8. 奈良時代に立てられた寺は水源地につくられたものが多いが、その本尊は多くが十一面観音であった。十一面とは蛇の象徴である。
  9. 平安期に虹の根元に市が立つという俗説がながれ(『中右記』)、また昔話に虹の根元には銭が降るというものがある(『全国昔話資料集成』)。
  10. つまり富の源泉である虹から貨幣が生み出されるというように話が変形した。つまり外界からの力=富が貨幣として市場を流通して社会を活性化させるようになった。
  11. 富の流通を推し進めると富だけが流通する物流から金融の世界へと移る。貸銭を始めたのは水源地にある寺であった。『日本永代蔵』から岸和田の水間観音の話を紹介。
  12. 性愛という数えられないエネルギーから貨幣という数えられるエネルギーへの変化は、近代社会(技術と科学)の条件である。
  13. といった具合に、国文学の立場からも、現代社会の重要な構成要素である資本主義や市場経済を語ることができる。
  14. 愛が銭に変わる近代で、詩人が貧乏なのは何故か?と問いかけて〆。
国文学のことはよく分からないのですが、いつだったか、子供の頃、車に乗って虹の根元を追っかけたこともあり、夢ネタだーと思って楽しく聞いてました。構想的にはアリなんでしょうか?この議論。根本的にアウトなのか、それとも細部をつめると使えるのか、そのあたりご専門の方にお聞きしたいところです。
 個人的には、資本主義を教条的に批判するよりは、現在の経済活動を古代に接続することでのその意味や価値をずらしてしまおうとする試みで、たいへん好きなんですが。人間賛歌~。

2007年6月29日金曜日

先日、飯田橋で

久々に夢見班のお二人と相見えることができました。お話しは、『明恵上人夢記』と『日本霊異記』の事例から考える「僧侶の夢」について、でした。拝聴しつつ、別の文脈からアプローチできないか、と考えておりました。たとえば、儀礼論あるいは身体論。関連しそうな文献については、拙ブログでリンクしております。でもこの件、講師ご当人を除いて論じるわけには、いきませんね(^^;さて直接にお逢いして判明したことがあります。まさにtribeが違うといいますか、サイバーリテラシーの問題といいますか……このブログ、そもそもあの最初の会談に集まったメンバ全員、閲覧できているのでしょうか?もちろんここで尋ねても、「休んだ人は居ませんねぇ?」と質問しているのと同じだしなぁ(苦笑)

2007年6月22日金曜日

実験その1?

先の投稿で盛り上がったSkype会議の実験が秒読み段階になりました。ほうじょうさんが先の投稿で「文明開化」と表現してましたけど、そのうちPodcastとかも手を出すかも?ひとまず今回は実験その1とゆーことで……

2007年6月15日金曜日

このメンバでの読書会

をぜひしたいものだ、と強く感じる本にめぐりあいました。末木文美士『他者/死者/私 哲学と宗教のレッスン』です。アカデミズムに足場を置きつつ、でもそのアカデミズムのお作法に満足せず、果敢に現代的問題についても発言する……そんな姿勢は、このメンバも(立場の相違はアレコレあれど)共有していると、と”ゐは感じております。なればこそこの本をネタにして読書会すると、面白いだろうなぁと夢想します。
つい数回前の投稿では、最近の本にダメ出ししておりましたがf(^^;そんな本に目を配る時間があるなら、このような本に一冊でも多く目を通したいものです。

2007年6月12日火曜日

百鬼夜行とエコロジー

ほぼ日刊四谷会談: 妖怪ストリートで話題になった大将軍商店街に行ってきました。「コメント欄にてご教示願います」とのことでしたが、写真を撮って来たのでエントリとして投稿します。

商店街の雰囲気はそこらにある商店街ですが、お店の軒先に手作りの妖怪がいるのが、「百鬼夜行」ってことなんでしょう。例えば、お菓子屋さんの子泣きじじい?とか、

学生服を着た一つ目小僧とか。


ちょっと面白かったのは、エコロジーと結びつけていたということ。大将軍商店街 妖怪ストリート 古道具たちの百鬼夜行にも、

大将軍商店街では、器物の妖怪である付喪神を題材にエコロジーやリサイクルの重要性を訴えながら、長きにわたり日本人に愛されてきた妖怪たちの奇奇怪怪な魅力をアピールし、より魅力的な町づくりを目指しています。
と述べられていますが(強調moro)、妖怪君たちもアピールしています。


また、これは今回初めて知ったんですが、百鬼夜行資料館なる小さい展示スペースがあったので寄ってみました。

この中には図書コーナーもあったんですが、そのラインナップがちょっと面白かったです。大部分は普通の怪談、伝説、説話本や京都の歴史関係(「魔界」系はもちろん含む)、ブックスエソテリカ系、それに水木しげる先生や諸星大二郎師匠のマンガとかだったりするわけですが、そういうのに交じって、『前世を記憶する20人の子供』、山口敏太郎の妖怪本、大谷宗司編『超心理の科学 日本超心理学会シンポジウム』(図書出版社)などのオカルト系が交じっていました(スウェーデンボルグ『霊界日記』もあったな)。

オカルト、ニューエイジ、エコロジーは地続きと言ってよいかと思いますが、妖怪ストリートのなかでもこのようなリンクが発見できて、何だか妙に納得してしまいました(って言うより、勝手にこじつけてるだけか (^_^;;)。

2007年6月8日金曜日

一歩を踏み出すことよりも

軽い日射病もどきかと思っていたら、意外や扁桃腺が腫れてどうも風邪っぽいと”ゐです。さてタイトルはそもそも昨年末の沖縄での経験がもとになっているのですが、この火曜に参加してきた金光教学研究会でもちょっと話題になったので、今回あらためて投稿してみました。もとになっている「沖縄での経験」とは、拙ブログにもエントリしております。
http://d.hatena.ne.jp/monodoi/20061223
儀礼の場での立居振舞を、あえて信仰者/研究者に分節するならば、儀礼の場に相応しい立居振舞をしようとするのが信仰者であって、そこで一歩を踏み出してシャッターを切ることができるのが研究者だ、との素朴な二分法があります。もちろんそんな単純な話ではないのですが、この二分法が選ばれている文脈を(わずかな経験ですけれども)自省しますと、信仰者/研究者が自他の区別を(お互いに)強化する際に用いられているのではないかとの懸念を持つようになりました。ついつい自嘲的に「僕は研究者として失格です。一歩が踏み出せないのです」と述べる前に、もう少し考えるべきことがあると気付いた今日この頃です。

2007年6月2日土曜日

「夢見の文化誌」告知

さて、一瞥以来会合を持てないままにここまで来てしまいましたので、猪股さんには無断で!、毎年恒例「首都大学東京オープン・ユニバーシティ」の告知をしておきたいと思います。
最初の顔合わせでも触れましたが、今年のテーマは「夢見の文化誌」。講義の順序は、猪股さん 6/6・13、三品さん 6/20・27、私 7/4・11、佐藤さん 7/18・25。猪股さんに参加表明をすれば、研究者はサクラで聴けるはず?です。私も可能な限り参加しますので(残念ながら、6/6は会議が入ってしまっているのですが…)、また終了後に飲み会、いやいや反省会やりましょう。
なお、舩田君も「関東の神仏信仰」という講座を持っています。こちらは8/3・10・17・24。

2007年6月1日金曜日

このイマサラ感

「失速」なる語彙は他人事の批判ではなく、こーゆー時こそ我々が盛り立てなければならぬのに、との自省から書きましたことです。と今さら一週間前の言い訳をする金曜担当のと”ゐです。
さて「真怪」研究の件ですが、それに関連し最近はどうもまた宗教ネタが出版界に目立ちはじめ、今回も店頭で気になった2冊がありました(それぞれ出版社サイトでの紹介へリンク)。

う〜んどう言えばいいんでしょうか、「このイマサラ感」との表現で、ニュアンスは通じますかね。。。もちろん熟読吟味していないこの段階でアレコレ言うのは何ともルール違反の気もするのですが、帯の惹句を瞥見しただけでも凹んでしまうこの気分は、いったい何なのでしょうか。。。昨年末あたりに世間でスピリチュアリティ云々と騒がれた時にも感じたんですが、下手に学会誌購読や学会大会参加していると、世間とゆーか出版業界とのズレとゆーかに、戸惑うことがしばしばです。もちろんどちらがヨイかの話ではなく、あぁ両者は残念ながらズレているなぁとの感慨です。
↑これ、下手に個人のブログに載せたら、それまでの私の言説なぞ知らない(知ろうともしない)一見さんが、オマエは何様ダっ!てな勢いでカキコミされそうなノリですねぇ(^^;