何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2009年12月6日日曜日

越境させる身体 ―静坐で語る思想史―

昨日開催された「花園大学国際禅学研究所・修行と身体班/宗教思想・文化研究会共催シンポジウム: 身体からはじま(め)る思想(史)」では、拙い報告にいろいろとコメントいただきありがとうございました。だいぶとっちらかった不十分なものでしたが、おかげさまでいろいろ整理できました。とても楽しかったです。

さて、報告の要点を一言でまとめると、「静坐をより普遍的な身体技法として開いていくことで、そこに今現在まで続く「近代的な研究者」と「伝統的な学者」の二重性がせめぎあう近代学術史の場を読み込む」というものであったことが分かりました。うーむ、一言になっていない。結局、前者の検討が不十分だったので、議論が後者の方に偏ってしまいましたが。
論文化する場合は、それぞれ資料を補って、身体技法としての普遍化で1本、民国期の近代学術言説の検討で1本と分割した方がいいのかもしれません。が、ひっくるめた混沌さに意味があるような気も。
以下、レジュメです。
現代につながる問題については、90年代(オウム以降)とゼロ年代(911以降)とで70年代以降の健康ブームがさらに変質したであろう点について、あるいは明治大正での国民国家の編制との関係について、もっと目配せする必要があるのではという指摘と、「ポストモダン」で説明した方が分かりやすいのではという指摘をいただきました。
前者の指摘については、重要な問題なんですけど、方向としては関連する研究を参照するにとどめ、僕自身の議論は、思想ではなく技術に注目するというかたちでそうした研究とは分業したいなと思ってます。つまり目配りの必要性はひしひしと感じるけど議論の中心にしたくない。
後者の指摘については、どうしてポストモダンを持ち出すと分かりやすいのかよく理解できませんでした。僕の報告の趣旨は、モダンやプレモダンがどちらか一方に置き換えられるのでなく、近代以降重なりあって存在してきたし、それは近代以前からの連続性があるというもので、ポストモダンという一言で片付けるような議論の立ち位置そのものへの批判になっているのですが、そこまで伝わらなかったようです。ポストモダンが現代思想において支配的な言説であるということに反対するつもりはないけど、別にそんなことと関係なく生きてる人はいくらでもいるし、僕も個人としてそのように生きています。だから現代思想でなく中国哲学史としてこうした研究を行うことに意味があると思ってるわけです。