何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2007年4月17日火曜日

観仏信仰と夢 (2)

ほぼ日刊四谷会談: 観仏信仰と夢 (1)の続き。

(1)に書いたような漠然とした問題意識を持っていたのですが、唯識学派・法相宗の研究史を見てみると、ほとんどが教理中心の哲学的、思想的な面に対するアプローチばかりでした。そういうアプローチ自体は嫌いじゃない(むしろ好き)わけですが、思想を勉強するのに歴史的な状況を知らないでやるのは変だよなと思って伝記とか宗教活動とかの論文を書くと「もろ君、歴史はそろそろやめて思想をしなさい」みたいなことを言わたりもすることに不満を持っていました。

ちょっと脱線になりますが、なぜこれほどまで哲学的、理論的なアプローチなんだろう?と考えている中で、西洋近代の波に晒され始めた近代の中国の学界・宗教界において、唯識が西洋の科学に対抗しうる自国(元はインドなんですけど)の“科学”として“発見”されていた、ということに気づきました。存在論、論理学、心理学などを有する唯識思想は、西洋のscienceに匹敵するものと考えるグループがいたようで、後の革命につながる思想の理論的バックボーンのひとつともなっています。ほぼ日刊四谷会談: 宮澤賢治と近代オカルティズムで北條さんが書かれているオカルト的な思考も、科学の進歩がかなり楽観的に考えられていた大正時代的な時代状況があったという指摘がありますが(中沢新一『哲学の東北』など)、唯識もそのような西洋科学受容史的な流れにおける宗教みたいな位置づけができるかもしれません(関連しそうな研究として島薗進『“癒す知”の系譜』をあげておきます)。中国の革命家たちは日本留学組が多いですしね。そういう意味で、「真怪」にも興味があります。

話を元に戻すと、そんなこんなの不満の中にはあったものの、『日本霊異記』下巻第38縁にある夢解きに五姓各別説に関する言及があったのを見つけ、観仏信仰や菩薩戒を通じて(大雑把に言えば)思想と宗教とを連絡できるんじゃないだろうか、という見通しが立ったのでした。詳しい内容に関しては、このあいだ仏教史学会に投稿したところなので、その査読結果待ち (^_^;) ということなのですが、とりあえず口頭発表時のレジュメ(PDF)や北條さんによる仮定された有機交流電燈 仏教史学会1月例会にリンクを貼っておきます。

(続く…かもしれない)

3 件のコメント:

イノ さんのコメント...

moroさん、こんばんは。イノともうします。
前回の(1)にもコメントしようとして、うまくいかずにそのままになってしまいました。ようやくカキコミできるみたいです!
奈良~平安初期の「文学」が専攻です。が、前回の梵網経のお話など、もっと早くうかがっていれば、と思う点しきりです。私は、奈良時代(とくに聖武とその娘の時代)には、仏教儀礼の実践的理解によって、たとえば夢見じたいが大幅に変化した(もちろんなんらかの経典にかかわる具体的な実践を行った人々に限定されますが)と考えております。
また、梵網経や最勝経、法華経(およびその注釈)は奈良時代以降の言説を圧倒的にヴィジュアルなものにしたと漠然と考えております。
そんな私の茫漠とした印象にしかすぎないものを、moroさんの(1)(2)は打ち砕く(救済する?)ものであるように受け止めました。
近代の問題に関しては(シンカイの分野ですね)、たいへんうといのですが、「唯識が西洋の科学に対抗しうる自国(元はインドなんですけど)の“科学”として“発見”されていた、ということ」に関してはたいへん興味があります。
私自身、華厳(梵網)の思想に奈良時代・霊異記経由で触れた際に、圧倒されて、もうこれはもう一つのむしろ超近代的(ポストモダンな)論理であり、この論理じたいを自分は取り入れて、論文を書くべきではないかと思いました。でも、同時にそう言ってしまうとやばい(よくあるパターンじゃん)のでは、と思いもしました。
ぜひ、(3)を!

イノ さんのコメント...

申し添えておきますと、私の華厳等の理解は(「理解」であるとして、ですが)井筒俊彦(大乗起信論を読む、とか・・・う~ん、字があってるか確かめていません)、中沢新一あたりを経由しています。

moro さんのコメント...

イノ様、コメントありがとうございます。moroです。

「奈良時代以降の言説を圧倒的にヴィジュアルなものにした」というお考え?アイデア?については、そのような視点で古代(上代)の言説について考えたことがありませんし、知識不足もありますので、これまで「観仏信仰と夢」と題して書いてきたこととの関連を含めて、今コメントできることはありません。でも、非常におもしろそうなお話です。今度是非お聞かせくださいませ(あるいはブログに書いてくださいませ)。

華厳経と言うより華厳教学についてですが、“真怪”的文脈で言えば、華厳教学と京都学派との関係を石井公成さんが指摘されています。古代の大仏建立も含めて、東アジアの政治的イデオロギーとして、華厳はかなり都合がよかったようです。

井筒俊彦さんの書かれたものは私も好きです。ただし、一般化しすぎというか、特殊性よりも普遍性のほうに突き進んでいってますので、歴史的なコンテクストを考える際にはそのまま適用するとやばい場合もあると思います。