何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2007年4月6日金曜日

会談前後

金曜担当の「と”ゐ」でございます(と、勝手に宣言してみました^^;)。このブログ「ほぼ日刊」の看板を支えるべく、エントリいたしますです。

さて。
ほうじょうさんより出されたお題「『怪談前後』を批判的に読み込む」ですが、これはなかなか難しいのでございます。というのも、私なぞは初期設定として大塚本を批判的に読むよう訓練されてしまっているので、たとえば水野葉舟についての言及、「葉舟は柳田に新聞社に自身の仲介を希望する内容を含む柳田宛の書簡をしたためてはいるが、投函されずに残されている……そういった含蓄が葉舟にはある」<同書348頁>の「含蓄」は、そりゃさすがに「含羞」でしょう的レベルで躓いており、とはいえ同時期に刊行された『公民の民俗学』「あとがき」を読めば、これは「手書き文字」を原因とする「誤植」かとも思われ、瑣末な部分に拘泥することなどないと自分に言い聞かせたりもするのですが、アレアレ「公民」とか「公共的なことば」云々は、大月隆寛や佐藤健二がそれこそ柳田民俗学を論じた際に述べてきたことではなかったか?それにしては『怪談前後』のあちこちでいわゆる民俗学あるいは柳田研究者たちの言質を揶揄的に挙げているけれども、大月・佐藤についてはどこで言及していたっけ?でもそもそも大塚本は「批評」であって、「研究」ではないと当人が断わり書きしているようにも読めるから、そこへツッコミ入れるのは野暮の極みというものだし、ネット上で真面目に批判したところでマトモに反応されることは(少なくとも私の経験では)絶無だと判断するところでございます。ついでに、以前とある「会」の論集について活字の書評として応対した際、こんなところで反応されただけで後は放置、てな経験もまた自省的に再考させて頂く契機となりました。
個人的には、本書冒頭の「日ユ同祖論」は大塚の近刊『疑史としての民俗学』を待つとして、本書の主題である自然主義との関係、つまり田山花袋・佐々木喜善・水野葉舟を柳田と並べ、「ことばの更新」としてみせたところは、むしろこの四谷会談がその表現手段も含め模索している現在と重ねて眺めているところです。

2 件のコメント:

HOJO さんのコメント...

論文は生産的議論を生むためのメディアとしては情報量が少なすぎる…といっても、面と向かって全人的情報を開示しながら議論したところで、やりきれなさと後悔ばかりが生み出されることもある。誠実な批判に対する誠実な回答、あるいは反論がなされるかどうかは、結局は当人同士の信頼関係によるしかないのかも知れない…と、これも書評、学会、シンポジウム等々の経験から生じた諦見?です。とすると、学的共同体の生産的ネットワークは極めて狭小なものになってしまいますが、それでもいいやと開き直る反面、他者を信頼したいという(私自身の研究テーマにも通じる)気持ちもどこかに燻っています。

と”ゐ さんのコメント...

あの会でのやりとりを傍から見ていた方に「アイだねぇ〜」と冷やかされたことを想い出します(^^;
ま、「愛」だか「哀」だかは微妙なのですが(--;