何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2007年4月12日木曜日

雑文/不敬罪

 書き込まなくては間が空いてしまう・・・と思っていたら、師さんが投稿して下さいました。私も続きます。 
 米谷匡史氏は論文「和辻哲郎と王権神話の再解釈-『尊王思想とその伝統』をめぐって-」(『国語と国文学』1994年11月)において、天皇権威を神聖化したとされる和辻について「このように和辻は、神の神たるゆえん、神聖性をめぐって、超越的な宗教性、神的次元を解消し、神聖性を此岸の人倫的秩序から表出されるものとして意味転換することに成功した・・・神話テキストに表示される神聖性は、人倫的秩序のうちへと回収され、「倫理思想」として読みかえられている」と、和辻の真に意図するところを分析し「和辻が主要な批判対象として念頭においていたのは、平田国学系の神道家がとなえる、天御中主神を究極の絶対神とし、そこからの神聖性の流出が世界をおおうとする国体神学の信仰体系であった」と結論し、そこに和辻の「思想闘争」を見ています。そう上手く行くだろうかという若干の疑問はありますが、興味深い見解だと感じます。
 さて、仏教学者の林屋友次郎は「日本国体と仏教」(『国家と仏教』昭和17年)で、近年注目を集めている、中世に成立した仏教的天皇即位儀礼である「即位灌頂」を持ち出して詳細に解説を施し(辻善之助は大著『日本仏教史』で即位灌頂に言及するも、深く論ずることを回避しています)、国体を体現する天照大神(大日如来)と天皇が神秘的に合一することを強調し、「天皇が単に歴史的人格としての天照大神の血統上の御子孫というだけであるとすると、天皇は要するに世間的の崇敬の対象たるに止まって、学問・宗教の淵源となることが出来なくなる・・・而して、仏教哲理に依って何が故に然るかの所以を明らめるらるることに依って、天皇は正法の権化となられるのである・・・斯く正法に依って国家を治めらるる御意志が闡明され、爰に始めて、名実ともに天皇の御資格が完成したことになるのである」と声高に主張します。
 これは一見、歴史的人格・世間的崇拝対象を超えた宗教の淵源として天皇を神聖化しようと企てており、和辻の「逆」を志向しているように思えます。しかし林屋の議論は「現在の国体論者が今猶仏教が嫌いである」(平田国学系神道家のことでしょう)という状況のもと、いわば素朴な国体論であり、暗に『国体の本義』を指していると思われる「信念的国体論」に対し、仏教教義に基づく国家哲学としての「理論的国体論」なるものを立てることで批判を展開してゆく性質を有することを考慮すると、「而して・・・」以降の文章は和辻と方法は異なるものの、「天皇権威の相対化」(安易な表現ですが)という方向性において一致するものがあるように見えてきます。或いは福島栄寿さんが「国民「宗教」の創出-暁烏敏 天皇「生仏」論をめぐって-」(『仏教土着』)で、「敏の神仏一致的仏教論の展開は、仏教者が、「神々の世界」を、神道の側から奪取せんとする闘争、という意味をもっていたように思える」とされることにも、〈仏教者が天皇を正法の権化として神道の側から奪取せん〉としている点において繋がるようです。

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