何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2007年4月25日水曜日

中国近代化の中の唯識

ほぼ日刊四谷会談: 観仏信仰と夢 (2)で書いた、

西洋近代の波に晒され始めた近代の中国の学界・宗教界において、唯識が西洋の科学に対抗しうる自国(元はインドなんですけど)の“科学”として“発見”されていた
という部分に、コメントでイノさんが反応して下さったので、若干補足を。これの元ネタはいくつかあるのですが、まとまっているのは次の論文だと思います。
  • 葛兆光「『海潮音』の十年(上)―中国1920年代仏教新運動の内的論理と外的志向—」(『思想』2002年第11号、No. 943)
  • 葛兆光「『海潮音』の十年(下)―中国1920年代仏教新運動の内的論理と外的志向—」(『思想』2002年第12号、No. 944)
唯識関連の記事は(下)に多いので、ちょっと引用してみます。
 一九二〇年前後、中国思想会の大問題はなんといっても「信仰の危機」であった。思想らしきものを持つ者であればだれでも必ずこの問題を感じ、変化混乱の世界を前にして手足の置場にも困りはてていたのである。(略)
 この時代の迷妄と危機をウェスタン・インパクトに帰す意見が多い。それは確かにそうであろう。ただ、この時代状況そのものは東洋文明の脆弱さが自己瓦解したとも見るべきである。(略)こうした状況で、「伝統」と「現代」、「東洋」と「西洋」の諸経験を一つに融合させ、現象・論理・意識・価値などを位置づけた、組織的な思想学説を再建することこそ、当時の思想家の目標であった。(略)
 仏教新運動はあきらかに「仏法」本位ですべてを包摂している。その内的論理はこうだ。「唯識」の分析方法によって科学的論理体系を包摂して人の経験的な足場を再建すること。その一方で「心真如を本とする」ことによって物質主義・道徳主義を超越する終極的価値体系を設けて、人の精神的安息地を再建すること。
 (略)唯識の複雑さ厳密さが西洋科学にレスポンスを迫られた仏教の唯一の有効な道具だったからである。
 当時、かなり多数の人々が、唯識学の復興が西洋科学主義の行き詰まりを解決する、と喜びもあらわに祝ったものだ。章太炎はこう言っている。科学は法相学の露払いにすぎなかった。換言すれば、科学時代は唯識法相学の時代に譲位するだろう、と。(略)
 (略)仏教は「万法唯識」を打ち立て、物と我とを超越した本源によってすべてを観照する。常識を超越して智慧となし、ユークリッド的な科学を非ユークリッド的な科学にすることができる。(略)
 (略)まさにアインシュタインが相対性原理を打ち立ててニュートンの旧説を打倒し、キュリー夫妻がラジウムを発見してドルトンの原子論を打倒したようなもの」であり、かく科学に代換し科学を包摂できる仏教唯識学は、彼らにあっては「真の思想革命」でもあったのだ。
あらためてこれを読むと、「自国の“科学”として“発見”されていた」という書き方はちょっと不適切でしたね。科学を包摂する体系としての唯識が再“発見”されたというべきでしたね。

章太炎(章炳麟)は言うまでもなく、孫文、黄興と並ぶ革命三尊の一人です。ですから、中国仏教界という小さな?枠の中での問題というより、思想界全体の問題、みたいに捉えるべきでしょう。

後半に引いた「非ユークリッド的な科学」とか「相対性原理」とかは、宮澤賢治の「四次元」の感覚に通じるものだという指摘もあるようですが(中沢新一『哲学の東北』参照)、大正時代の日本の雰囲気と似ていた面があったのかもしれないなぁと改めて思います。

ちなみに同じ『思想』2002年第11号には石井公成さんの「大東亜共栄圏に至る華厳哲学」をはじめとする仏教と近代に関する論文が特集されています。

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