何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2008年6月3日火曜日

「あの世」講座が開始いたしました

夢見班は今年は「あの世」班として、首都大Ou講座を開いています。「「あの世」をめぐる文化誌」です。山手線の飯田橋~四谷界隈は「あの世」とか「異界」とかを語るにぴったりの「場所」なんだなあと、昨日もほうじょうさんに「異界」講座の実地研修のお話しをうかがいながら、あらためて確認。

昨夜、一回目はイノが古事記の黄泉国についてお話いたしました。

ちょうど、ほうじょうさんも大学のほうで、「黄」「泉」についての講義を終えたところ、ということで、「黄泉」という漢字の文化的深みについてはまったく触れなかったイノといたしましては、冷や汗もの。勉強して出直してこい、ってかんじです。

まあそのうえで今回、古事記を読み直してみて発見したのは「あの世」にたいする「この世」は、古事記においては「うつし国」という言葉に相当する世界であるということです。

「うつ」(現)の「国」とは、山川野などから成りますが、それらはすべて神々なわけで、現在進行する神々の具体的活動じたいが「場」を現前させている世界であり、その神々はイザナキ・イザナミという男女の「身」を具現した神の交合と出産によってこそ出現した、ということかと思います。

そして、人は「人草」。高天原と、もう一つの「国」である黄泉国に対して「葦原中国」とも呼ばれる「うつし国」の葦原の一部を成す「草」であり、誕生と死を繰り返しているわけです。

と、なにやらひじょうに、ファンタジーっぽいお話になったのでした。

3 件のコメント:

HOJO さんのコメント...

ほうじょうです。昨日はお疲れさまでした。
『古事記』の奥の深さをあらためて思い知らされる"読み"でした。死によって支えられている世界という世界観は、非常に琴線に触れるのですが、黄泉国神話からもそれがみえてきて嬉しくなった次第です。ありがとうございました。

中国の「黄泉」は、『左氏伝』あたりを端緒に、『孟子』や『淮南子』などいろいろと出てきますが、どうも漢代を降る頃まで明確な「冥府イメージ」は付されていないようですね。死者を葬る地下を指してはいても、厳密な意味で「死者の国」ではない(なんて、ぼく自身もまだまだ不勉強なのですが)。とすれば、ヤマト言葉ヨミに漢字「黄泉」を当てた『古事記』の叙述は、やはり極めてクリエイティヴであったのだと思い知らされます。

イノ さんのコメント...

「黄泉」は冥府イメージが明確でないままともかくも地価であるとすると(「黄」は「地」ですよね)、やはり古事記の「黄泉」は「死者を葬る地」や暗闇のイメージはあった、ということになりますね。

そして、「この世」にあたるものが、あくまでも黄泉国への来訪によってこそはっきりと名指される、という点。これも今回再認識した点でした。
「うつし国」の活力・生命力・生成力、絶え間ない変成力と連鎖を認識すればするほど、その源は死だという考え方が、古事記にはほのみえるようです。

でも実のところ、いちばんは、古代の段階で、黄泉もいくつものあの世の一つ、とご指摘いただき、ああそうだよな、と救われた思いです(笑)。いえ(笑)どころでなく、ありがとうございました。

イノ さんのコメント...

追伸 地価→地下。です。