『幽』8号
と”ゐです。あっという間の年の瀬です(-.-;年越したらまたあっという間なんだろうなぁ……なかなか皆様にお会いできないのでお渡し損ねているのですが、『幽』8号の「怪談考古学」コーナで短文を書かせて頂きました。できることなら『幽』8号を皆様にお届けしたいのですが、さすがに経済的判断から躊躇せざるをえず、申し訳なく思っております<(_ _)>とはいえ話題にならないのも哀しいので、ここで紹介させて頂きました。立ち読みでもかまいせんので、ご意見頂戴できれば幸甚です。
何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。
と”ゐです。あっという間の年の瀬です(-.-;年越したらまたあっという間なんだろうなぁ……なかなか皆様にお会いできないのでお渡し損ねているのですが、『幽』8号の「怪談考古学」コーナで短文を書かせて頂きました。できることなら『幽』8号を皆様にお届けしたいのですが、さすがに経済的判断から躊躇せざるをえず、申し訳なく思っております<(_ _)>とはいえ話題にならないのも哀しいので、ここで紹介させて頂きました。立ち読みでもかまいせんので、ご意見頂戴できれば幸甚です。
と”ゐです。最近、民俗学関係の仲間と話す機会が数度あったのですが、そこで繰り返し話題の中心となったのが、民俗学黎明期ゆるやかな場がいかに構築されていたか?と、現在のわれわれが置かれている状況下いかにゆるやかな場を確保するか?でした。前者は学史的興味関心であるわけですが、翻ってわれわれ自身の足下を再考せずにはおれません。後者は制度的に供給されるわけでなく、むしろ大学や学会などの制度から常に侵蝕される状況だとの認識で一致したのが民俗学の現在だったりするわけですが、皆様の関わる領域はどうなのでしょう?気になるところです。
もろです。
南山宗教文化研究所「科学・こころ・宗教」プロジェクトのAAR報告はたいへんありがたいし、おもしろいですね。
中でも目に付いたのはRichard J. Callahan「石炭の力――中央アパラチア地帯における発展と魔術化」という発表(アメリカ宗教学会(AAR)サンディエゴ大会に参加して(2))。石炭産業の発展によって迷信などがなくなったのは、単なる民俗文化の衰退ではなくて「石炭という岩がもつ「力」に魅力を感じる主観的フェティシズムなのであり、魔術性は姿を変えて継続したともいえる」とのこと。最近、コンピュータの宗教性みたいなことをブログにちょっと書きましたが、当時最新テクノロジーだった石炭だってそうだったんだよなーと納得。
どゐさんから教わった公開研究会「UMAのいる科学史」に参加してきました。大海蛇の話とツチノコの話でした。というと何のことやらですが、ようすれば、近代と科学の徒花としてUMAをめぐる言説を読み解く、とかそういった試みで、まさに霊学ネタと同じ問題意識で、おもしろかったです。実際、発表者のお二人の子供の頃から好きで~との由で、そうだよなと納得。参加者は好き者揃いでした。
総合討論のところでは、伝聞・引用の蒐集→報告者自身の直接観察(視覚の特権化)→訓練された専門家による観察といった科学の制度化との関連で議論がなされ、その制度化に際して専門家(科学者)から排除されていく人たちが、16世紀の伝聞史料を証言の補強とするようになって19世紀にいっぱい復刊されたとかいった話を聞くと、うーんどこかで見聞きした話だなあと。やっぱりつながっていくのね~。
ツチノコを発表されていた伊藤さんは現在台湾の大学で勤務されているそうで、このテーマで出張申請したらさすが日本と言われたそうです。彼の地こそ、霊学が現代にいきいきとしているんですけどね。しかし(いや、だからか)、同時に強烈に近代知識人(というか儒教的士大夫)意識も濃密なので、アカデミズムにそれのっけんの?というツッコミもまた自然に出てくる訳です。のっかるどころか科研費まで取ってるあたり、さすがというかうらやましい。
最後の討議で、写真の効用と妖精はUMAに入るのかという質問をさせていただきました。柳田国男が口承オンリーだったのに対し、渋沢敬三は文物メインだったとか。コロポックルの写真とか残ってないのかな。最近、仙人の写真を見たりするので気になります。日本近代だけで見ると霊の物神化(そしてそこからの商品化)になるのかもしれませんが、近代中国まで視野に入れると、気の理論が濃密にあるだけに、話はもう少し複雑になるような気がします。