何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2007年7月21日土曜日

鎌倉仏教・夢・女性

と”ゐさんから夢見班最終日に参集の呼びかけがかかっていますが、お手すきの方、どうぞお越しください(その場合は、猪股さんに一報を)。佐藤さんのコアな講義が聴けます。きっとそのあとはカラオケ大会になります?

ところで、ぼくの上智での夢見講義も、昨日の金曜で最終日を迎えました。毎度のことで中国に時間をかけすぎ、『書紀』『古事記』あたりはまだしも、平安時代は本当に駆け足になってしまったので、来年にでも「純日本版」をやろうかと考えています。
準備の途中でいろいろ興味深い発見があり、夢見班の飲み会では意見交換をしたりもしたのですが、最後に中世にかかる仏教の夢を概観していた際、表題のごとくに、〈鎌倉仏教(という呼び方には抵抗があるので一応〈〉付き)〉の祖師たちが特徴的に女性との関係を夢見ているのが面白いなあと思いました。
まず、明恵の『夢記』についてはちゃんと読んだことがなかったのですが、三品さんにも教えていただいてざっとみたところ、次のような記事がありました(承久二年の巻、岩波文庫版p.88〜89)。「同十一月六日の夜、夢に云はく、(割書:其の初夜の行法は、抑坐禅して行法を修せむと欲する間也)一屋の中に端厳なる美女有り。衣服等奇妙也。而るに、世間之欲相に非ず。予、此の貴女と一処に在り。無情に此の貴女を捨つ。此の女、予を親しみて遠離せざらむ事を欲す。予之を捨てて去る。更に世間之欲相に非ざる也。此の女、糸金を以て様々にからげたり。又、此の女、大刀を持せり。/ 案じて云はく、女は毘廬舎那也。即ち是、定めて妃也…」。『夢記』には多くの女性(実在の人物含む)が登場することは三品さんも指摘されていましたが、夢に現れた美女を毘廬舎那仏と解釈するのは面白い。観音や吉祥天ならともかく、如来に女性のイメージを重ね合わせてゆく発想は、前例か何かあるのでしょうか。「世間之欲相に非ず」を強調している点には、かえって性的な印象がうかがえますし、「突き放しているのに身を寄せてくる」というのも、本願他力的で注意を引きます。
こういった明恵のような性的夢は、同時代の慈円や親鸞にもみることができます。『慈鎮和尚夢想記』 は王法仏法相依論のひとつですが、自身のみた夢を解きながら、三種の神器のうち玉璽を玉女=皇后とみたて、剣である自体清浄の天皇との交合は、罪にならないばかりか国家の安定を象徴するという論理を展開します。これは慈円自身に関わる夢解きではありませんが、性の現実と仏教の齟齬をいかに解決するか、という点では上記の明恵に共通するものがあるでしょう。親鸞の六角堂夢告の方は、もはやいうまでもありません。夢に救世観音が現れ、「行者が宿業によって妻を娶らなければならないときには、私が玉女に姿を変えて交わり、極楽へ導こう」と告げます。いわゆる「女犯偈」ですね。類似の文句は『覚禅抄』に如意輪観音の言葉として出てくるので、聖徳太子信仰のなかで親鸞に〈主体的に発見〉されたものと思われます。『大日経義釈』巻十三には、悪道に落ちようとしている女性が性交渉を求めるなら菩薩はそれに応じ、そのうえで真理の世界へ導いてゆかねばならないという論理が出てきます。「女犯偈」はその主/客を転倒した世界なので、成立の背景に救済する側/される側の転換があるように思います(浄土教の成立とも関係があるかも知れません)。『霊異記』中十三/吉祥天の説話からの展開を考えても面白いでしょう(ひょっとしてこのテーマ、ぼくが休みのときに三品さんがとりあげたかも知れませんが)。

〈女性と仏教〉の観点からはいろいろ議論のあるところですが、「男性僧侶による性衝動の正当化」というミもフタもない結論ではなく、夢と仏教、そして修行と身体性の問題からみてゆくと何か掴めそうです。〈玉女の精神史〉というテーマでも、古代から近現代まで書けそうです。最後に従軍慰安婦の問題もちゃんと組み入れて。

1 件のコメント:

イノ さんのコメント...

先週から『ブレイブ・ストーリー』やO・R・メリング『夢の書』に『うつほ物語』と読んでいたもので、「夢見の文化誌」最終回の講義を聞いてますますいろんな「次元」や「場」がごちゃごちゃ交錯してしまいました。まったくもってサトーさんの思う壺、企画サイドの「立場」はどこへやら、です。
この講座では性と夢、死と夢、場と夢、環境と夢、生と夢。。。いろいろ宿題をいただいたように思います。夢って、なんなのでしょうね。と、まるでオチこぼれの受講生のような感想しか言えませぬ。。。。