何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2007年7月27日金曜日

解釈共同体

飯田橋では“伝説の講師”ブルースSato氏の謦咳に接することができ、また(僅かな時間でしたが)参集された皆様と懇談できまして、と”ゐは大変面白い夜でございました。興味深いことに、今回の夢見シリーズでは見事に〈近世〉が跳んでいる……ちょっと埋めてみたい枠ではあります。
一方で夢見の実践に必要不可欠ともいえる「解釈共同体」の問題もまた興味深い。真怪の問題につながる怪異・妖怪文化もそうですが、誰とそのリアリティを共有し情報交換するか?は重要なポイントですよね。講義@飯田橋で最後に拝見したビデオなど、宗教(的)結社の光景としては馴染み深いものです。ただそれを「夢」の領域のみで切り取るのか、それとも日常生活全般(「夢」に対すれば「現」?)に拡張するのかの違いはありますけれども。
別の興味として「解釈共同体」とググると、マンガ評論・研究関連のサイトが目に付きます(^^)「解釈共同体」という用語が、それこそどの解釈共同体で流通しているのか、これまたチェックしておきたい問題です。

2007年7月21日土曜日

鎌倉仏教・夢・女性

と”ゐさんから夢見班最終日に参集の呼びかけがかかっていますが、お手すきの方、どうぞお越しください(その場合は、猪股さんに一報を)。佐藤さんのコアな講義が聴けます。きっとそのあとはカラオケ大会になります?

ところで、ぼくの上智での夢見講義も、昨日の金曜で最終日を迎えました。毎度のことで中国に時間をかけすぎ、『書紀』『古事記』あたりはまだしも、平安時代は本当に駆け足になってしまったので、来年にでも「純日本版」をやろうかと考えています。
準備の途中でいろいろ興味深い発見があり、夢見班の飲み会では意見交換をしたりもしたのですが、最後に中世にかかる仏教の夢を概観していた際、表題のごとくに、〈鎌倉仏教(という呼び方には抵抗があるので一応〈〉付き)〉の祖師たちが特徴的に女性との関係を夢見ているのが面白いなあと思いました。
まず、明恵の『夢記』についてはちゃんと読んだことがなかったのですが、三品さんにも教えていただいてざっとみたところ、次のような記事がありました(承久二年の巻、岩波文庫版p.88〜89)。「同十一月六日の夜、夢に云はく、(割書:其の初夜の行法は、抑坐禅して行法を修せむと欲する間也)一屋の中に端厳なる美女有り。衣服等奇妙也。而るに、世間之欲相に非ず。予、此の貴女と一処に在り。無情に此の貴女を捨つ。此の女、予を親しみて遠離せざらむ事を欲す。予之を捨てて去る。更に世間之欲相に非ざる也。此の女、糸金を以て様々にからげたり。又、此の女、大刀を持せり。/ 案じて云はく、女は毘廬舎那也。即ち是、定めて妃也…」。『夢記』には多くの女性(実在の人物含む)が登場することは三品さんも指摘されていましたが、夢に現れた美女を毘廬舎那仏と解釈するのは面白い。観音や吉祥天ならともかく、如来に女性のイメージを重ね合わせてゆく発想は、前例か何かあるのでしょうか。「世間之欲相に非ず」を強調している点には、かえって性的な印象がうかがえますし、「突き放しているのに身を寄せてくる」というのも、本願他力的で注意を引きます。
こういった明恵のような性的夢は、同時代の慈円や親鸞にもみることができます。『慈鎮和尚夢想記』 は王法仏法相依論のひとつですが、自身のみた夢を解きながら、三種の神器のうち玉璽を玉女=皇后とみたて、剣である自体清浄の天皇との交合は、罪にならないばかりか国家の安定を象徴するという論理を展開します。これは慈円自身に関わる夢解きではありませんが、性の現実と仏教の齟齬をいかに解決するか、という点では上記の明恵に共通するものがあるでしょう。親鸞の六角堂夢告の方は、もはやいうまでもありません。夢に救世観音が現れ、「行者が宿業によって妻を娶らなければならないときには、私が玉女に姿を変えて交わり、極楽へ導こう」と告げます。いわゆる「女犯偈」ですね。類似の文句は『覚禅抄』に如意輪観音の言葉として出てくるので、聖徳太子信仰のなかで親鸞に〈主体的に発見〉されたものと思われます。『大日経義釈』巻十三には、悪道に落ちようとしている女性が性交渉を求めるなら菩薩はそれに応じ、そのうえで真理の世界へ導いてゆかねばならないという論理が出てきます。「女犯偈」はその主/客を転倒した世界なので、成立の背景に救済する側/される側の転換があるように思います(浄土教の成立とも関係があるかも知れません)。『霊異記』中十三/吉祥天の説話からの展開を考えても面白いでしょう(ひょっとしてこのテーマ、ぼくが休みのときに三品さんがとりあげたかも知れませんが)。

〈女性と仏教〉の観点からはいろいろ議論のあるところですが、「男性僧侶による性衝動の正当化」というミもフタもない結論ではなく、夢と仏教、そして修行と身体性の問題からみてゆくと何か掴めそうです。〈玉女の精神史〉というテーマでも、古代から近現代まで書けそうです。最後に従軍慰安婦の問題もちゃんと組み入れて。

2007年7月20日金曜日

夢見が悪い

こんなニュースが流れたその夜には、関係者だった一人としてそりゃアレコレ想い出すわな、と独り合点していると”ゐです。さてナンダカンダでもう七月も下旬ですので提案です。7月25日の夢見の文化誌最終回に、調整可能な方々は参集するのでいかがでしょう?おそらく夢見班はそうなさるのではないか、と拝察するので、それに便乗してしまおう!とゆーわけです。。。正確に申せば、と”ゐを寄せさせて下さいお願いします<(_ _)>なんですが。。。

2007年7月13日金曜日

世界妖怪会議

すでにニュース等でご存知の方もいるかと思いますが、8月26日に太秦映画村で「世界妖怪会議」が開催されるそうです。何が「世界」なのかはいまいちよくわかりません (^_^;;

「大将軍商店街の協力で、時代劇のオープンセットを百鬼夜行がパレードする」とのこと。うーむ、宗教史懇話会のサマーセミナーってこのへんでしたよね。

「糸色望」は確かに横書きだと。。。

史学雑誌『回顧と展望』号が出ましたね。まだ未入手なのですが、こんな紹介されると、怖いモノ見たさで読みたくなります(笑)これでは展望ではなくむしろ「絶望した!」ですよね。歴史学者にうかがってみたいものです。でもどの領域でも「回顧と展望」みたいなのは出されるでしょうから、その比較検討ってのも面白そうです。

さてほうじょうさんがこんなことを書いてますが、気がつけばこのカムパネムラはすでにいない(=見事にアガリ!)のではないか、との不安がぬぐえないジョバンニ・と”ゐでしたf(^_^;

2007年7月6日金曜日

みたままつり

7/13から/16にかけては「東京のお盆」だそーで、それに合わせて靖国神社では「みたままつり」が催されます。非常勤先@神保町での授業が18時半には終わるので、その後ちょっと覗く予定です。九段の辺りはこのメンバで散策しても面白いなぁと思っています。皆さんそんなお暇はないでしょうが……

さてこのブログタイトル、さすがに「ほぼ週刊」しませんか?(^^;
別にイヤミではなくて、おそらくこの七月になって、やれ前期末だなんだで皆様忙しいだろうと拝察するわけです。ちなみにと”ゐの場合、8/10までは(補講ではなく)通常の授業がしっかりと詰まっていますハイ(-"-;;

2007年6月30日土曜日

備忘録:愛と銭

 二松学舎大学の人文学会第九五回大会の記念講演で、中沢新一さんが「国文学と人類学」というお話をされました。最初の20分は聞いてませんが、旧石器と新石器の違いについて話されていたようです。
 内容はだいたい以下の通りでした。

  1. 万葉集の「伊香保ろの八尺の堰に立つ虹の、あろはろ迄も、さねをさねてば」を取り上げて折口信夫の議論にもとづきつつ、前半の自然の世界と後半の人間(性愛)の世界を「虹」という比喩が一つに結んでいる。
  2. 比喩とは異なる二つの世界を一つに結ぶ蝶番のようなもので、共同体外部に排除された異質、過剰な力をもつものを導入する。=詩的言語
  3. この異質から持ち込まれた力による言葉の活性化が文学の発生であり、この比喩は客人神と同じ働きをしている。
  4. ところで、虹は性愛と関係が深いのは人類学的知見からするとけっこう普遍的。『詩経』にも虹による性愛のメタファーが認められる。目加田誠訳を引用(「南山朝隮」)。
  5. そもそも虹はアボリジニの虹の蛇の信仰にあるよう、現実世界の外、言語を絶したドリームタイムの現実に残されたかけらである。アボリジニはアフリカを9万年前に離れてから流れ流れてオーストラリアにたどりついてきたので、人類最初期の神話が残されている。
  6. 人間にもドリームタイムのかけらは残されていて、それは言葉の支配する昼に対する夜の世界、夢や言葉を必要としないコミュニケーションの性愛である。
  7. さて、虹の蛇は雨期の前に天に昇って雨を降らすとされる。つまり豊穣をもたらすもの=富の源泉である。旧石器時代においては雨期をはじめるものとしてそこいらの水たまりの底にいたが、農耕がはじまった新石器時代においてはすみかを水源地へと移した。
  8. 奈良時代に立てられた寺は水源地につくられたものが多いが、その本尊は多くが十一面観音であった。十一面とは蛇の象徴である。
  9. 平安期に虹の根元に市が立つという俗説がながれ(『中右記』)、また昔話に虹の根元には銭が降るというものがある(『全国昔話資料集成』)。
  10. つまり富の源泉である虹から貨幣が生み出されるというように話が変形した。つまり外界からの力=富が貨幣として市場を流通して社会を活性化させるようになった。
  11. 富の流通を推し進めると富だけが流通する物流から金融の世界へと移る。貸銭を始めたのは水源地にある寺であった。『日本永代蔵』から岸和田の水間観音の話を紹介。
  12. 性愛という数えられないエネルギーから貨幣という数えられるエネルギーへの変化は、近代社会(技術と科学)の条件である。
  13. といった具合に、国文学の立場からも、現代社会の重要な構成要素である資本主義や市場経済を語ることができる。
  14. 愛が銭に変わる近代で、詩人が貧乏なのは何故か?と問いかけて〆。
国文学のことはよく分からないのですが、いつだったか、子供の頃、車に乗って虹の根元を追っかけたこともあり、夢ネタだーと思って楽しく聞いてました。構想的にはアリなんでしょうか?この議論。根本的にアウトなのか、それとも細部をつめると使えるのか、そのあたりご専門の方にお聞きしたいところです。
 個人的には、資本主義を教条的に批判するよりは、現在の経済活動を古代に接続することでのその意味や価値をずらしてしまおうとする試みで、たいへん好きなんですが。人間賛歌~。