何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2008年3月31日月曜日

遅ればせながら:『季刊日本思想史』72号紹介

遅ればせながら、ではありますが、本会のすべてのテーマに関連するであろう雑誌の特集の紹介です。実は最近買いましたので、まだ読んでいません。書店で手に入りますので、直接ご購入ください。

○『季刊日本思想史』72号(2008年1月)「特集 近代日本と宗教学:学知をめぐるナラトロジー」
・磯前順一「〈日本の宗教学〉再考—学説史から学問史へ—」
・島薗進「宗教言説の形成と近代的個人の主体性—内村鑑三と清沢満之の宗教論と普遍的超越性—」
・池上良正「宗教学のなかの民俗・民衆宗教研究」
・林淳「宗教系大学と宗教学」
・鶴岡賀雄「吉満義彦の「近代日本カトリシズム」」
・全京秀「「宗教人類学」と「宗教民族学」の成立過程—赤松智城の学説史的意義についての比較検討—」
・臼杵陽「大川周明のイスラム研究—日本的オリエンタリストのまなざし—」
・高橋原「東京大学宗教学科の歴史—戦前を中心に—」
・岩田文昭「京都学派の宗教哲学と宗教思想」
・増澤知子「欧米における宗教学の課題—宗教と世俗性の位置づけ—」

そういえば、『史林』も一般発売開始しましたね。さっそくジュンク堂で購入しました。記憶関連の特集でした。

2008年3月28日金曜日

また今度

どゐです。moroさんが紹介されてます日曜の方法論懇話会、ご成功を祈念しております。当方は日本地理学会の大会へ顔を出し、そちらでの収穫を、今度お会いする際に披露したいと存じます。

2008年3月21日金曜日

あちこちで

と”ゐです。ほうじょうさん発表のモノケン・シンポは成功のようで、何よりでした。先日、早稲田大学高等研究所主催のシンポジウム「縁起の東西―聖人・奇跡・巡礼―」で、舩田さんにお会いしました。所用のため私はシンポを中座したので、できるなら舩田さんに当日の感想をエントリして頂きたいです。と”ゐとしましては、日・印・欧の比較は興味深かったものの、日欧と印との差がありすぎたように感じました。これが研究対象に起因するのか、研究主体(方法)に起因するのか、それが判明しなかったのがこれまた心残りでした。さらには、もう少し事前に調整できたであろう会場とのやりとりを(言うなれば強制的に)聞かされた点も、マイナスの印象です。公開を前提としないシンポであれば、そのようなやりとりも、さらにはパワーポイントの用い方の拙さも、発表時間を守らないことも、なるべく気にしないようにはするのですが……なので是非とも舩田さんには、見巧者としての評価をお願いしたいのでありますf(^_^;

ところで今月末には方法論2nd GIGが起動するようですね。成功を祈念しております。


【追記】コメント欄で紹介頂いた主催者側のお一人による当日の感想を拝読。「質問に立ったのは1人残らず知らない人」かぁ……それはお気の毒だったとしか言いようがありませんな(-.-;;でもそれだけ食い付き甲斐のあるシンポだったわけで。表現こそ違え、発表時間と(会場との)質疑応答について言及しているのは、認識が一致していると言えましょうか。1冊にまとまるとのことですが、そこで上述した「日欧と印との差」をどれだけ検討されるのか、期待したいところです。

2008年3月15日土曜日

平安貴族の夢分析

今日、たまたま書店で見つけました。まだ全然読んでないのですが、とりあえず書影だけでも:

2008年3月14日金曜日

物語研究会ミニシンポは明日です

と”ゐです。ほうじょうさんがすでに投稿されてますように、物語研究会のミニシンポが明日に迫りましたね。とても楽しみなのですが、現時点で推参できるか微妙なのですf(^^;とにかく成功を祈念しております。

2008年3月7日金曜日

東アジア宗教文化学会(仮称)ご紹介

と”ゐです。拙ブログで以前にちょっとだけ言及した新たな学術団体・東アジア宗教文化学会(仮称)が、日中韓それぞれから計75名となる呼びかけ人を取りまとめ、準備委員会による会員募集を始める手前まで来ました。母体である日韓宗教研究フォーラム以来、少々関与してますと”ゐとしましては、できる限り広範囲の交流を希望しますので、このブログ・メンバであるたとえばmoroさんや八戒さんそしてfunataさんやほうじょうさんなどにも、少しお気に留めて頂けますとありがたく存じます。「会員になって!」と勧誘したいところですが、そもそも会費やら会則やら細部については、と”ゐもまだまだ十全に理解してないのでf(^^;;とりあえずご紹介まで。

2008年3月2日日曜日

物語研究会ミニ・シンポ「亡霊とエクリチュール」

ご無沙汰しております。ようやく校務に余裕の出てきた北條です。
先週金曜の成城民俗学シンポには顔を出したかったのですが、やはり叶いませんでした。最近、学会・研究会等に参加することが困難になり、半ば引きこもりと化しています。困ったものです。

ところで、来る3/15(土)に明治大学にて、標記のとおりモノケンのシンポジウムが行われます。テーマは、コーディネーターの高木信さんらしく、「亡霊とエクリチュール」。私もパネリストの末席を汚しておりますが、方法論的猛者・論客ぞろいの会ですから少々恐れをなしています。基本概念等、充分復習して臨むつもりです。以下に呼びかけ文、報告要旨、タイムテーブルを載せておきますので、お手すきの方はお越しください。

【呼びかけ文】 高木 信
 怪異・不気味なもの・外部的なものを語ることによって、語る主体が変容していく、あるいは物語の構造や語りが変容していく様相を考えたいと思っています。言語の構造とパラレルな関係にある—意味するものと意味されるものの恣意的な関係としてある—亡霊というのが、僕の頭の中にあるのですが、できればそれを越え出て、不気味なものとして新たに見えてくる言語構造、物語のあり方みたいなところまで行ければと思っています。
 不気味なものの回帰(介入)によって引き起こされる日常空間(主体・言語・エクリチュール)の揺れ・破砕を捉えていけたらと思っております。外部性を受け止めるこちら側の変容・抵抗の発生は、そしてそれを表象することは、いかに可能か、あるいは不可能か。
 「亡霊」「怪異」「おぞまきしもの」の表象と、その表象が生み出す、日常の瓦解みたいなことを考えていけたらと思っております。
 この問題は、単に「日本文学(日本語による言説)の表現の問題」にとどまるのではなく、表象不可能性と表象の間で「いま—われわれ」に考えられることは何かということを明らかに出来たらと思っています。日本/文学/研究の言説は、「無気味なもの」「語り得ぬもの」を前にして、何が出来るのか?
 このような議論は、従軍慰安婦問題や靖国問題に限らず、まだまだ解決されていない歴史上の、そして現在の多くの問題(暴力・癒し・排除・戦争etc.)を考える上で重要な議論であり、またなぜかいつのまにかあやふやにされてしまっている感のある問題であると思います。「日本/文学/研究」発の思考が見つかればと思っています。ただ、政治的な思考や、歴史修正主義者たちの「物語り論」に直接触れる必要はないと思っています。それらと対峙する可能性や態度が、怪異を語るテクストを分析する中で立ち現れ、問題を深く思考できればと思っております。
 今回のシンポには、千里眼や催眠、妖怪、怪異をカルチュラルスタディーズ的な立場から分析しておられる一柳廣孝氏、外部性を導入することで軍記物語研究における理論的思考を続けておられる樋口大祐氏、言語論的転回以降の歴史学的思考を深化/進化させておられる北條勝貴氏、怪異の作家・秋成の研究を牽引しておられる長島弘明氏をパネラーとして迎え、コメンテーターには漢文日記を「文学テクスト」として読もうという中丸貴司氏、谷崎源氏の現代語訳の問題を扱うデリダリアンの西野厚司氏が来てくださいました。
 みなさまの多数のご参加と活発な議論を楽しみにしております。
 ちなみに、この問題に関する高木の立場は、以下のものを参照してください。
高木信[2007a]:「亡霊に取り憑かれたエクリチュール」(「国文学 2007年12月号」学燈社 2007年12月)
高木信[2007b]:「怨霊と亡霊と—〈亡霊〉に取り憑かれた軍記物語—」(一柳廣孝他編「ナイトメア叢書第5巻 霊はどこにいるのか」青弓社 2007年12月)
高木信[2008]:『平家物語・装置としての古典』(春風社 2008年3月)の第㈽部

【発表要旨】
1)「幽霊から心霊へ—近代日本における「霊」言説の変容をめぐって(仮題)」一柳廣孝
 明治から大正期に、日本の「霊」観念は大きな変容の波にさらされる。近世的な「幽霊」イメージから、西欧の科学的な心霊研究によって生じた「心霊」イメージへの移行である。本発表では、この間に発生したと思われる「霊」をめぐる言説の力学について報告する予定である。具体的には、西欧心霊学の移入にさいして中心的な役割を果たした、高橋五郎と渋江保の言説を主に取り扱うつもりでいる。
2)「 軍記文学における「亡霊」的なるもの」樋口大祐
 中世前期の日本列島には、世の転変を齎した諸事件の原因を、政争に敗れた死者の霊に起因させる認識枠組(=怨霊史観)が存在した。『平家物語』は内乱終息後、平家一門の「怨霊」の出現を予断し、その「鎮魂=鎮圧」に向けて構想されたといわれる。しかしテクストがより多く示唆するのは平家の「怨霊」ではなく、王法仏法共同体に危機を齎した清盛の「悪行」の記憶(=デリダの所謂「亡霊」的なるもの)を払拭できないでいることだ。
 一方、現在進行中の動乱の中で書かれた『太平記』は、怨霊(天狗)史観をアレゴリカルな記述によって解体する。そして、ついにはテクスト自ら、未曾有の世の転変を説明する言葉がない事態を承認するに至るのである。
 「蒙古襲来」を挟む一世紀間は、新たに「到来するもの」(デリダ)を王法仏法共同体の論理によって馴致しようとする動きが臨界に達し、その拘束力を急速に失い始めた時期として理解することが出来るのではないか。
3)「 死者の主体を語れるか—他者表象における想像力とジレンマ— (仮題)」北條勝貴
 言語論的転回以降の歴史学においては、〈テクスト外〉に依拠して支配的物語りを動揺させ、相対化・更新することこそ歴史学者の責務であると考えられるようになってきた。しかし一方で、外部を万能のブラックボックスとみなし、パラダイムの組み換え可能性を丸投げしてしまう傾向もみえる。それは、本来言語化を拒む周縁を〈境界〉や〈ケガレ〉、あるいは〈怪異〉と名付け、内部化する民俗的心理と同質の営みだろう。〈テクスト外〉を、外部性を保ったまま語ることはできないのか。失われた厖大な時間の流れに埋没し、対象として認識さえされてこなかった死者たち。彼らを物語りの主体とすることは可能なのか、またそれは要請されたとおりの救済に繋がるのか。このことは、高木信氏の提言する〈亡霊〉の位置づけとも関わってくる。列島社会の祖先崇拝、祟り神信仰の原型ともいうべき死者との関係を伝える、中国の先秦竹簡群を素材に考えてみたい。
〈参考文献〉
鹿島徹『可能性としての歴史—越境する物語り理論—』岩波書店、2006年
野家啓一『歴史を哲学する』岩波書店、2007年
拙稿「主体を問う、実存を語る—文学/歴史学の論争と共通の課題—」『国文学 解釈と教材の研究』52-5、2007年
4)「『雨月物語』と怪異(仮題)」長島弘明
 上田秋成の『雨月物語』に登場する亡霊や怨霊たちを、「分身」や「多義性」等々のいくつかのことばを手がかりに読み解いてみたい。『雨月物語』九話に登場する幽霊や妖怪・精霊たちはもとより一様ではないが、そのほとんどが、出現する相手(幽霊の姿を目撃する相手)との間になにがしかの有意な関係を持っている。その関係とはどのようなものか、また彼岸にいる亡霊のことばと、此岸にいる生者のことばはどのように交錯し、また乖離しているか、そのあたりを中心に話をしたい。
●コメンテーター  中丸貴司氏  西野厚志氏

【進行予定】
13:00〜 高木信「ミニシンポ「亡霊とエクリチュール」について」(5分)
13:05〜 一柳廣孝氏「幽霊から心霊へ—近代日本における「霊」言説の変容をめぐって(仮題)」(30分程度)
13:35〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
13:40〜 樋口大祐氏「軍記文学における「亡霊」的なるもの」(30分程度)
14:10〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
14:15〜 休憩 15分
14:30〜 北條勝貴氏「死者の主体を語れるか—他者表象における想像力とジレンマ—」(30分程度)
15:00〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
15:05〜 長島弘明氏 「『雨月物語』と怪異(仮題)」(30分程度)
15:35〜 質疑応答(内容確認的な質疑 5分)
15:40〜 休憩 20分
16:00〜 コメンテーター(中丸貴司氏・西野厚志氏)より 各10分
16:20〜 パネラーからの応答および他のパネラーへの質疑と応答 各5分
16:40〜 パネラーとコメンテーター間での議論 10分程度
16:50〜 フロアーを交えてのディスカッション