何でも四谷のJ大では、夢見の古代誌、真怪研究、『冥報記』輪読、それぞれの研究グループが草木も眠れぬ真っ昼間から密談を繰り広げているそうな。

2007年4月28日土曜日

次回四谷会談の件などなど

皆さんの投稿になかなかコメント付けられず、申し訳ありません。ははあ、とか、ふふん、とか唸っているばかりの今日この頃です。
しかし「妖怪ストリート」ですか…。うちの大学でやっているコミニュティ・カレッジでも、江戸怪談に関する講座を作って、四谷・番町周辺の怪異スポットを散策したいと思ってるんですけどね。「幽霊ストリート」なんて付けたら、京都とは逆に自治体から文句をいわれそうですが。とりあえず、今度の会談の午前中にお岩稲荷へゆきましょう。

ところで夢。あまり進展ないですが、次回はとりあえず殷周の情況を整理し、皆さんにご意見を伺いたいと思います。もう少しデータを集積できるかと思いましたが、統計処理するような形は難しいかも知れません。甲骨における「夢」字の現れ方、意味などを質的に検討し、周王朝〜春秋戦国期の夢観にぼちぼち及ぶ方向です。主軸は貞人・占夢官の知識・技術と、その〈賢人〉への移行、底流として存在する史官の実践ですね。しかし、昨年首都大OUで講義したときにはかなり端折っていたので、あらためて調べてみると幾つも新しい発見があります。『詩経』なんて、あれほど具体的に夢占の「主観」が語られているとは思いませんでした。

そうそう、会場・時間は前回と同じです。またメールは送信しますが。

2007年4月27日金曜日

妖怪ストリート

大将軍商店街 妖怪ストリートについて、耳にしたことがある、実際に寄ってみた、などの経験をお持ちのメンバおられます?素朴に興味関心がありますので、コメント欄にてご教示願います<(_ _)>

2007年4月25日水曜日

中国近代化の中の唯識

ほぼ日刊四谷会談: 観仏信仰と夢 (2)で書いた、

西洋近代の波に晒され始めた近代の中国の学界・宗教界において、唯識が西洋の科学に対抗しうる自国(元はインドなんですけど)の“科学”として“発見”されていた
という部分に、コメントでイノさんが反応して下さったので、若干補足を。これの元ネタはいくつかあるのですが、まとまっているのは次の論文だと思います。
  • 葛兆光「『海潮音』の十年(上)―中国1920年代仏教新運動の内的論理と外的志向—」(『思想』2002年第11号、No. 943)
  • 葛兆光「『海潮音』の十年(下)―中国1920年代仏教新運動の内的論理と外的志向—」(『思想』2002年第12号、No. 944)
唯識関連の記事は(下)に多いので、ちょっと引用してみます。
 一九二〇年前後、中国思想会の大問題はなんといっても「信仰の危機」であった。思想らしきものを持つ者であればだれでも必ずこの問題を感じ、変化混乱の世界を前にして手足の置場にも困りはてていたのである。(略)
 この時代の迷妄と危機をウェスタン・インパクトに帰す意見が多い。それは確かにそうであろう。ただ、この時代状況そのものは東洋文明の脆弱さが自己瓦解したとも見るべきである。(略)こうした状況で、「伝統」と「現代」、「東洋」と「西洋」の諸経験を一つに融合させ、現象・論理・意識・価値などを位置づけた、組織的な思想学説を再建することこそ、当時の思想家の目標であった。(略)
 仏教新運動はあきらかに「仏法」本位ですべてを包摂している。その内的論理はこうだ。「唯識」の分析方法によって科学的論理体系を包摂して人の経験的な足場を再建すること。その一方で「心真如を本とする」ことによって物質主義・道徳主義を超越する終極的価値体系を設けて、人の精神的安息地を再建すること。
 (略)唯識の複雑さ厳密さが西洋科学にレスポンスを迫られた仏教の唯一の有効な道具だったからである。
 当時、かなり多数の人々が、唯識学の復興が西洋科学主義の行き詰まりを解決する、と喜びもあらわに祝ったものだ。章太炎はこう言っている。科学は法相学の露払いにすぎなかった。換言すれば、科学時代は唯識法相学の時代に譲位するだろう、と。(略)
 (略)仏教は「万法唯識」を打ち立て、物と我とを超越した本源によってすべてを観照する。常識を超越して智慧となし、ユークリッド的な科学を非ユークリッド的な科学にすることができる。(略)
 (略)まさにアインシュタインが相対性原理を打ち立ててニュートンの旧説を打倒し、キュリー夫妻がラジウムを発見してドルトンの原子論を打倒したようなもの」であり、かく科学に代換し科学を包摂できる仏教唯識学は、彼らにあっては「真の思想革命」でもあったのだ。
あらためてこれを読むと、「自国の“科学”として“発見”されていた」という書き方はちょっと不適切でしたね。科学を包摂する体系としての唯識が再“発見”されたというべきでしたね。

章太炎(章炳麟)は言うまでもなく、孫文、黄興と並ぶ革命三尊の一人です。ですから、中国仏教界という小さな?枠の中での問題というより、思想界全体の問題、みたいに捉えるべきでしょう。

後半に引いた「非ユークリッド的な科学」とか「相対性原理」とかは、宮澤賢治の「四次元」の感覚に通じるものだという指摘もあるようですが(中沢新一『哲学の東北』参照)、大正時代の日本の雰囲気と似ていた面があったのかもしれないなぁと改めて思います。

ちなみに同じ『思想』2002年第11号には石井公成さんの「大東亜共栄圏に至る華厳哲学」をはじめとする仏教と近代に関する論文が特集されています。

2007年4月20日金曜日

「今月のオススメ」な「スピリチュアル」

さすがに三回続けるとホントにそれらしくなったかな、と思っている金曜担当(自己申告)のと”ゐです。
さて画像は、東北線と上越線との分岐点・大宮駅の構内で、書店など店舗を案内する掲示板に登場した「スピリチュアル」です。このネタを「真怪」とすべきかそれこそ怪しむべきところですが、まぁ昨年末からマスメディアに頻出する「スピリチュアル」ブーム、たとえばロハス野村さんが自身のブログで取り上げた雑誌の特集なんてのも、緩やかに連なる問題系として捕捉したいところ。
民俗学では、「フェイクロア」や「フォークロリズム」なる用語でもって、従来のフォークロアとは違う位相の何かを析出しようと藻搔いておりますが、このマスメディアに頻出するようになった「スピリチュアル」に対し、スピリチュアルな動向を検討してきた宗教学が、はたしてどんな動きを見せるのか、たいへん気になるところです。

2007年4月17日火曜日

観仏信仰と夢 (2)

ほぼ日刊四谷会談: 観仏信仰と夢 (1)の続き。

(1)に書いたような漠然とした問題意識を持っていたのですが、唯識学派・法相宗の研究史を見てみると、ほとんどが教理中心の哲学的、思想的な面に対するアプローチばかりでした。そういうアプローチ自体は嫌いじゃない(むしろ好き)わけですが、思想を勉強するのに歴史的な状況を知らないでやるのは変だよなと思って伝記とか宗教活動とかの論文を書くと「もろ君、歴史はそろそろやめて思想をしなさい」みたいなことを言わたりもすることに不満を持っていました。

ちょっと脱線になりますが、なぜこれほどまで哲学的、理論的なアプローチなんだろう?と考えている中で、西洋近代の波に晒され始めた近代の中国の学界・宗教界において、唯識が西洋の科学に対抗しうる自国(元はインドなんですけど)の“科学”として“発見”されていた、ということに気づきました。存在論、論理学、心理学などを有する唯識思想は、西洋のscienceに匹敵するものと考えるグループがいたようで、後の革命につながる思想の理論的バックボーンのひとつともなっています。ほぼ日刊四谷会談: 宮澤賢治と近代オカルティズムで北條さんが書かれているオカルト的な思考も、科学の進歩がかなり楽観的に考えられていた大正時代的な時代状況があったという指摘がありますが(中沢新一『哲学の東北』など)、唯識もそのような西洋科学受容史的な流れにおける宗教みたいな位置づけができるかもしれません(関連しそうな研究として島薗進『“癒す知”の系譜』をあげておきます)。中国の革命家たちは日本留学組が多いですしね。そういう意味で、「真怪」にも興味があります。

話を元に戻すと、そんなこんなの不満の中にはあったものの、『日本霊異記』下巻第38縁にある夢解きに五姓各別説に関する言及があったのを見つけ、観仏信仰や菩薩戒を通じて(大雑把に言えば)思想と宗教とを連絡できるんじゃないだろうか、という見通しが立ったのでした。詳しい内容に関しては、このあいだ仏教史学会に投稿したところなので、その査読結果待ち (^_^;) ということなのですが、とりあえず口頭発表時のレジュメ(PDF)や北條さんによる仮定された有機交流電燈 仏教史学会1月例会にリンクを貼っておきます。

(続く…かもしれない)

2007年4月14日土曜日

宮澤賢治と近代オカルティズム

一向に読み進まない『怪談前後』。その冒頭部分を眺めていて、(さほど新しい視点ではないですが)「宮澤賢治だって近代オカルティズムだよな」という印象を強く持ちました。そこで、13日に行った日本史特講「夢見と夢解きの古代文化論」の初回で『銀河鉄道の夜』をとりあげ、そこに描かれた夢の世界が、明治末年〜大正期のオカルティズムと密接に繋がっていた点を概説。以下、その要旨です。夢とも真怪とも関わる領域なので、私も「ほぼ日刊」の看板を守るべくエントリしておきます。もしかすると、『怪談前後』を読み進めてゆけば出てくる問題かも知れないのですが、もしそうであった場合はご容赦を。

(1) 宮澤賢治『銀河鉄道の夜』の世界
 宮澤賢治(1896-1933)は、近代東北で活躍した詩人・童話作家・教育者・農業指導者である。自己の思想を表現するものとして文学を描き、貧窮する東北農民の生活・文化を向上させるための諸活動を展開した。彼の文学の特徴として第一に挙げられるのは、宗教的色彩の強さ、多様さである。生家の宗教としての浄土真宗、自己の選択した法華経信仰、そして青少年期の憧憬としてのキリスト教......。それらが葛藤しつつ併存しているところに独特の世界観を解く鍵がある。また、イーハートヴという幻想世界によって達成された、地域性/普遍性の止揚も重要だろう。故郷岩手の自然・習俗を濃厚に反映しつつ、ヨーロッパともアメリカとも、西域ともつかない空間が展開されている。岩手の方言とエスペラント語が併用されているのも興味深い点である。
〈夢〉という観点から彼の代表作をひとつ挙げるとすると、やはり「銀河鉄道の夜」が想起されよう。漱石の「夢十夜」、朔太郎の「猫町」、百閒の「冥途」、龍之介の「歯車」も捨てがたいが、(サブ・カルチャーも含めた)後世における影響力、認知度からすれば圧倒的との印象がある。近現代の物語世界における、〈夢〉の枠組みを決定づけたといってもいいかも知れない。簡単にあらすじを述べておこう。......不幸な環境にある少年ジョバンニは、夏のケンタウル祭(星祭り)の夜、突如訪れた銀河鉄道に乗って天界をめぐる旅に出る。車両には幼なじみのカムパネルラも乗っており、二人は「どこまでも一緒にゆくこと」を誓い合い、ゆきずりの人々との対話のなかで、「ほんとうの幸い」を模索する。北十字、プリオシン海岸、アルビレオの観測所、さそり座、南十字とめぐり、しかし空の穴=石炭袋でカムパネルラは消えてしまう。泣き叫ぶジョバンニは眠りから覚め、カムパネルラの死を知る......。今でいう〈夢落ち〉だが、問題はこのラストに異なるバージョンが存在することである。
「銀河鉄道の夜」は、大正13年〜昭和8年(1924-1933)の9年間にわたり、まさに賢治の亡くなる直前まで、推敲に推敲が重ねられた作品である。その原稿は彼の死後、他の厖大な作品とともにトランクから発見されたが、1970年代の『校本全集』編纂に伴う綿密な調査によって、初期形1〜3、最終形の4パターンの存在することが確認されるに至った。初期形と最終形の間には幾つかの相違があるが、最も大きいのはラストの描かれ方である。最終形は先にあらすじを述べたとおり、銀河の旅は夢として閉じられ、友人を救うべく川に入ったカンパネルラの死が語られる。それに対して初期形3では、カムパネルラの死の具体相は語られず、銀河の旅が、ブルカニロ博士なる科学者による遠隔思考伝達実験であったと明かされるのである。博士は「ほんたうの幸福」を追求しようと誓うジョバンニに対し、宗教や信仰の領域に科学の実験を用い、唯一絶対の真理を確定してゆく企図を述べる。本当の考えと嘘の考えを実験によって区別すれば、信仰も科学と同じようになるというのだ。ここには、宗教をめぐる賢治の懊悩とともに、地質学者でもある彼の自然科学崇拝がうかがえる。しかし、それを賢治ひとりの特性に閉じこめてしまうのではなく、科学の宗教心理への適用、テレパシー実験としての側面に、近代オカルティズムとの繋がりをこそ読み取るべきではないか。
(2) 賢治の方法と近代オカルティズム
 そもそも「銀河鉄道の夜」の成立自体、オカルティックな様相に覆われていた。執筆の直接的契機となったのは、賢治最愛の人にして最大の理解者でもあった、妹トシ子の死(大正11年)であったと考えられている。「永訣の朝」や「無声慟哭」には、どこまでも一緒にゆこうと誓った妹の死に対する絶望、孤独感とともに、トシ子の向かった世界とは何なのか、天国とは本当に存在するのかといった問いが強烈に投げかけられている。また、同時期に作られた「風林」や、トシ子との接触を真の目的とした北方旅行を綴る「青森挽歌」では、冥界からの通信が確かに届いたと語られているのである。
  ◎「風林」(『春と修羅』所収、抜粋)〔『校本全集』2、p.148〕
  とし子とし子
  野原へ来れば
  また風の中に立てば
  きつとおまへをおもひだす
  おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
  鋼青壮麗のそらのむかふ
   (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
    光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
     …………此処ぁ日あ永あがくて
     一日のうちの何時だがもわがらないで…………
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ
  ◎「青森挽歌」(『春と修羅』所収、抜粋)〔『校本全集』2、p.163-164〕
  なぜ通信が許されないのか
  許されてゐる、そして私のうけとった通信は
  母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ
  どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだらう
  それらひとのせかいのゆめはうすれ
  あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
  あたらしくさはやかな感官をかんじ
  日光のなかのけむりのやうな羅をかんじ
  かがやいてほのかにわらひながら
  はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを
  交錯するひかりの棒を過ぎり
  われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
  それが〔〕そのやうであることにおどろきながら
  大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
  わたくしはその跡をさへたづねることができる
下線部に示したように、ここでは〈夢〉は、此界/他界の境界にあるもの、あるいは他界よりの交信の手段として語られている。天上への意識といい、汽車や旅行のイメージといい、「銀河鉄道」と共通のモチーフに溢れていることが分かる。
 ところで、この死者との交信の前提的思想として指摘されているのが、やはり賢治も諸書に引用するウィリアム・ジェイムズ(1842-1901)である。彼が異常心理研究、心霊研究(テレパシー実験も含む)の果てにたどりついたサブリミナル学説は、個人意識と宇宙意識の連続を説くものであった。そこでは、死者の意識も宇宙に還元されるだけで喪失するわけではないとされ、交信も可能なものと考えられているのである。大塚常樹は、賢治のユナニミスムを、サブリミナル学説が梵我一如などの仏教的フィルターを通して受容されたものだろうと指摘している〔大塚93, 香取90, 吉永01〕。興味深いのは、〈千里眼事件(明治44年〈1911〉)〉の福来友吉が、ジェイムズの熱心な紹介者であったことだろう。賢治と近代オカルティズムの繋がりがみえてくるが、さらに重要なのは彼の創作法=心象スケッチ(mental sketch modified ; mental sketch revived)である。いうまでもなく、世界と感応し刻々と変化する〈意識の流れ〉を記録する方法であるが、サブリミナル学説を前提に考えると深みが増す。賢治がどこへゆくにも首から筆記用具を提げ、何かに気づくと猛烈なスピードで手帳に書き込んでいたという村人、教え子らの証言によれば、降霊実験の方法である自動筆記との関わりもみえてくる。折しも明治25〜31年には、出口なおの自動筆記=〈お筆先〉を根幹に大本教が成立し、コスモポリタニズムの一翼を担いエスペラントの普及運動も行っていた(教団の出版にエスペラントを用いたのがちょうど大正13年、「銀河鉄道」執筆開始の年である)。
  ◎「序」(『春と修羅』所収、抜粋)〔『校本全集』2、p.7-8〕
  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です(中略)
  これらは二十二箇月の
  過去とかんずる方角から
  紙と鉱質インクをつらね
  (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
  ここまでたもちつゞけられた
  かげとひかりのひとくさりづつ
  そのとほりの心象スケッチです
  ◎「序」(『注文の多い料理店』所収、抜粋)〔『校本全集』12、p.7-8〕
  ……これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてき
  たのです。ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、
  ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、
  うしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
『春と修羅』序は難解だが、サブリミナル学説を前提に据えると分かりやすい。宇宙意識と連続して明滅変化する個人意識を記録する、そして記録することで宇宙意識に接近しようとするのが心象スケッチなのだろう。『料理店』序は牧歌的だが、やはりサブリミナル学説を通して考えると面白い。賢治の目に映る自然は、単にファンタジックに擬人化されたものではなく、宇宙意識を通じて繋がっている存在である。だからこそ賢治は、彼らの物語りを感受することができる。「どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」とは、その繋がりを表現した文章だろう。それは一種のテレパシーであるから、心象スケッチこそが、ブルカニロ博士の実験の実践であるともいえるかも知れない。また、これらの文章に「そのとほり」との字句があるのは、最近の大塚英志の指摘との関連で注意をひく。大塚は、柳田国男の『遠野物語』(明治45年)にある「自分も亦一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり」という表現が、グリム童話、小泉八雲『怪談』の序にも載せられていることから、『遠野』の自然主義文学としての方法に着目しているのだ〔大塚07〕。賢治の「そのとほり」も、これら「そのまま」に通底する言説ではないのだろうか。実は、柳田に遠野の民話を語った佐々木喜善は、賢治と交流のあった人物である。二人が詩作や心霊、エスペラントの問題で議論し、意気投合する間柄にあったことは、佐々木の弟が証言しているという〔原92〕。賢治の詩のなかにも遠野は何度か登場するし、「座敷ぼっこのはなし」は『遠野物語』の影響だろう。さらに、佐々木を柳田に紹介した水野葉舟の親友は高村光太郎であり、高村こそはいうまでもなく、中央文壇における賢治の理解者・紹介者であったのだ。
 大塚のいうように、民俗学の成立に近代オカルティズムが密接に関わっていたとすれば、その輪のなかには賢治も含まれていた可能性が高い。少なくとも、「銀河鉄道の夜」にみられる〈夢〉の特性が、オカルティズムと密接に結びついていたことは間違いないだろう。しかし、このような〈夢〉のあり方は、近代に特徴的なものとして現れたわけではなく、むしろ古代〜中世の情況が再発見、再解釈された結果とも思える。今後も、歴史における〈夢〉の探究を続けたい。

参考文献
大沢正善 1994 「「心象スケッチ」の展開と同時代」『国文学 解釈と教材の研究』39-5
大塚常樹 1993 『宮沢賢治 心象の宇宙論』朝文社
大塚英志 2007 『怪談前後—柳田民俗学と自然主義—』角川選書
香取直一 1990a「「銀河鉄道の夜」の七つの問題—表現と研究法—」『宮沢賢治』10
     1990b「「心象スケッチ」の発展的諸相—「意識の流れ」の記述と文学化—」『国文学 解釈と鑑賞』55-6
田辺繁治 2004 「夢と憑依—宗教的体験から日常世界へ—」『岩波講座宗教』5/言語と身体、岩波書店
中野新治 1994 「夢・覚醒・再生—『銀河鉄道の夜』ノート—」『国文学 解釈と教材の研究』39-5
原子朗  1992 「宮沢賢治のいる見取図—文学史の組み換えのために—」『国文学 解釈と教材の研究』37-10
吉永進一 2001 「ウィリアム・ジェイムズと宗教心理学」島薗進・西平直編『宗教心理の探究』東京大学出版会

2007年4月13日金曜日

ダシにする?

一週間のご無沙汰でした。金曜担当(のひとり)と”ゐでございます。
卒論生のひとりが、天理の都市計画やら建築やらについて扱うので、ゼミ室兼用である研究室に関連図書を揃えて、読み始めました。天理との比較のため、『霊界物語』など大本(教)関連図書も揃えたので、なかなか圧巻な本棚になってます。と”ゐ自身は、天理教や大本に加え、金光教における空間認識の問題を比較検討することで、前回の会談中に「顔を上げられない」状態だった原因にケリをつける契機となるように願っております(^^;

2007年4月12日木曜日

雑文/不敬罪

 書き込まなくては間が空いてしまう・・・と思っていたら、師さんが投稿して下さいました。私も続きます。 
 米谷匡史氏は論文「和辻哲郎と王権神話の再解釈-『尊王思想とその伝統』をめぐって-」(『国語と国文学』1994年11月)において、天皇権威を神聖化したとされる和辻について「このように和辻は、神の神たるゆえん、神聖性をめぐって、超越的な宗教性、神的次元を解消し、神聖性を此岸の人倫的秩序から表出されるものとして意味転換することに成功した・・・神話テキストに表示される神聖性は、人倫的秩序のうちへと回収され、「倫理思想」として読みかえられている」と、和辻の真に意図するところを分析し「和辻が主要な批判対象として念頭においていたのは、平田国学系の神道家がとなえる、天御中主神を究極の絶対神とし、そこからの神聖性の流出が世界をおおうとする国体神学の信仰体系であった」と結論し、そこに和辻の「思想闘争」を見ています。そう上手く行くだろうかという若干の疑問はありますが、興味深い見解だと感じます。
 さて、仏教学者の林屋友次郎は「日本国体と仏教」(『国家と仏教』昭和17年)で、近年注目を集めている、中世に成立した仏教的天皇即位儀礼である「即位灌頂」を持ち出して詳細に解説を施し(辻善之助は大著『日本仏教史』で即位灌頂に言及するも、深く論ずることを回避しています)、国体を体現する天照大神(大日如来)と天皇が神秘的に合一することを強調し、「天皇が単に歴史的人格としての天照大神の血統上の御子孫というだけであるとすると、天皇は要するに世間的の崇敬の対象たるに止まって、学問・宗教の淵源となることが出来なくなる・・・而して、仏教哲理に依って何が故に然るかの所以を明らめるらるることに依って、天皇は正法の権化となられるのである・・・斯く正法に依って国家を治めらるる御意志が闡明され、爰に始めて、名実ともに天皇の御資格が完成したことになるのである」と声高に主張します。
 これは一見、歴史的人格・世間的崇拝対象を超えた宗教の淵源として天皇を神聖化しようと企てており、和辻の「逆」を志向しているように思えます。しかし林屋の議論は「現在の国体論者が今猶仏教が嫌いである」(平田国学系神道家のことでしょう)という状況のもと、いわば素朴な国体論であり、暗に『国体の本義』を指していると思われる「信念的国体論」に対し、仏教教義に基づく国家哲学としての「理論的国体論」なるものを立てることで批判を展開してゆく性質を有することを考慮すると、「而して・・・」以降の文章は和辻と方法は異なるものの、「天皇権威の相対化」(安易な表現ですが)という方向性において一致するものがあるように見えてきます。或いは福島栄寿さんが「国民「宗教」の創出-暁烏敏 天皇「生仏」論をめぐって-」(『仏教土着』)で、「敏の神仏一致的仏教論の展開は、仏教者が、「神々の世界」を、神道の側から奪取せんとする闘争、という意味をもっていたように思える」とされることにも、〈仏教者が天皇を正法の権化として神道の側から奪取せん〉としている点において繋がるようです。

観仏信仰と夢 (1)

「ほぼ日刊」のはずなのに、早くも間があいてしまいました (^_^;; 埋め草に私(師)が関心を持っている夢見関連の領域である、観仏信仰についてちょっとだけ。

私は元々夢に関心があったわけではなく、仏教、特に唯識思想な人たちの神秘体験を探しているうちに、観仏信仰にたどり着き、そこで夢見に出会ったのでした。観仏信仰とは、その名の通り、仏や菩薩の姿を目覚めているときであれ寝ているときであれ見る、会うということを積極的に求め、実現にむけて何らかの実践をする信仰のことです。直接見たりしなくても、仏像とか絵画とかで仏・菩薩の姿を表現したり、その前で何らかの儀礼を行ったりするというのも、広い意味での観仏信仰に入ります。

そもそもなぜ唯識な人たちの神秘体験に興味を持ったかというと、大きく分けて二つあります。

  1. 唯識思想が「学問仏教」とか「仏教の基礎学」とか言われているのが気に食わなかった。
    • 昔の人にとっては、「学問」だって宗教的実践だったかもしれないじゃん。
    • そもそも「学問」的な部分しか見てこなかったんじゃないの?
  2. 仏教者としての先天的素質があるとする唯識学派の所謂“五姓各別説”について、ちゃんと考えたかった。
    • すべての人に素質がある=平等って、本当に平等なんでしょうか?
    • 「すべての人が仏になれる」=仏教というのはいかがなものか。一部の人しか救われない、なんて宗教はいっぱいあるんですけど。
どちらも宗教者の体験とか実践とかについて考えたいという問題意識の一環であり、もっと風呂敷を広げれば「外在化(≒神秘体験、歴史叙述、書記行為一般 etc.)による自己書き換えの問題系」ということになる(ということに最近気づいた)のですが、それについては別の機会に。

観仏体験については、山部能宜さんの諸研究が決定的に重要なので、とりあえずリストアップしておきます。
  • Nobuyoshi Yamabe. The Sūtra on the Ocean-Like Samādhi of the Visualization of the Buddha: The Interfusion of the Chinese and Indian Cultures in Central Asia as Reflected in a Fifth Century Apocryphal Sūtra. PhD thesis, Yale University, 1999.
  • 山部能宜「『梵網経』における好相行の研究—特に禅観経典との関連性に注目して—」(『北朝隋唐中国仏教思想史』、法蔵館、2000年)
(続く)

2007年4月6日金曜日

第1回会談:三本柱の経緯と展開(増補版)

まるで造化三神のようですが、四谷会談運営の基本となる3つの柱について、当日の議論に基づいて記録しておきます。

1)「夢見の古代誌」
【経緯】契機となったのは、2006年度首都大学東京OU講座「夢見の古代誌—東アジアと日本—」。講師は猪股ときわ氏(ホスト)、三品泰子氏、北條の3人で、それぞれが神話・和歌、『日本霊異記』、古代中国を担当。夢見・占夢・解夢の知・技術が、東アジアと日本の関係においてどのように育まれ、現代に至るかを論じた。前年のOU講座「交渉する神と仏」(猪股、北條、舩田淳一)の「内的盛り上がり」を受けて発案され、今回も聴講批判者として武田比呂男氏が参加、毎回終了後の飲み会では議論が百出し、研究会の発足、書物の刊行へと「夢」は膨らんだ。この過程をブログで発表したところ、師茂樹氏が興味を示し、また佐藤壮広氏、黒田智氏も発足への期待を吐露した。なお、OU講座は今年度も継続、佐藤氏を加え「夢見の文化誌—東アジアの中の日本文化—」として開かれる。
【問題関心】個人的経験である夢見が人と人との繋がりを創り出すこと、逆に、夢語りの拒否により夢の宗教的深化が進むことなどの問題が先鋭化された。北條個人としては、夢に関わる日本、東アジア、そしてヨーロッパ地域の類例なども検討しながら、単なる比較研究や多様性論を克服する視点を見出したいと考えている。また、〈夢〉を表現するためのメディアも話題となった。単なる論文集ではなく、それぞれの研究がお互いをインスパイアしてゆくセッションのような、〈新しいカタチ〉を目指したいとの意見があった。
【運営の方法】講義を前提に構築された視角・内容であるため、まずは猪股・三品・北條の3人で報告内容を再検討してゆく。武田氏には、独自のアプローチで夢について接近してもらう。師茂樹氏、佐藤壮広氏、黒田智氏も参加予定。
2)「真怪」研究会
【契機と問題関心】野村英登氏、土居浩氏、北條が、お互いのブログで共通の関心を確認したことから発案された〈未然〉の会である。さらに遡ると、2005年11月末〜12月初の方法論懇話会のML上で、輪読会の必要について3人の意見交換がある。土居氏は近代仏教研究や自らの属する金光教のオリジンへ向けて、野村氏は近代中国スピリチュアリズムと共生学、そして学祖の探究へ向けて、円了へのアプローチを標榜している(ちなみに野村氏の2005/11/28方法論懇話会メールでは、「スピリチュアリズムに気功と武術ネタを加えると、現代までひっぱれるオカルト身体論の日中交渉史」が構想できて面白い、と書かれている)。北條側の関心は、ケガレ研究会において武田氏や戸川点氏と夢想した江戸怪談と、近代オカルティズム、現在のスピリチュアリティ論を繋ぐことにある。円了はこれらの境界に位置する鍵であり、彼の著作や関係する知識人、平田篤胤、柳田国男、折口信夫はもちろん、新興宗教の教祖たちの言動を分析してゆくことによって、現在の人文学が喪失してしまった宗教、神霊へのアプローチの仕方が見つけ出せるのではないかと感じている。
【運営の方法】まずは円了の著作を任意に輪読してゆく。また、関連する他の思想家、宗教家、研究者の著作や、近代のオカルティックな事件(千里眼など)についても検証したい。舩田淳一氏も、近代の宗教学的認識を相対化する独自の視点で参加。
3)「『冥報記』輪読+仏教文化史研究会
【概要】3本柱のうち、唯一実際に運営されてきた、考古学者/歴史学者による古代仏教の研究会。2000年頃に池田敏宏氏が開始した、関東の仏教関係考古遺物をどのように扱うかを模索する研究会が母胎。その後、モノをめぐる考古/文献の認識のズレから衰退し(内藤亮氏の談)、『霊異記』研究を前提とする『冥報記』の輪読の場へシフトした。成果は参加者それぞれの研究に活かされ、歴史雑誌として初めて『霊異記』を特集した『歴史評論』668(2005-12)の発刊へと繋がった。しかし、当会の基本的認識である、「漢籍・仏典の言説に基づき古代社会を表現した『霊異記』は社会の実像に直結しない」という態度は、歴史学界では支持を得られていない。
【運営の方法】『冥報記』を含む、仏教説話集や中国古小説について輪読してゆく。元来のメンバーであった内藤亮氏、石津輝真氏、北條が担当。池田敏宏氏、藤本誠氏も参加予定。

以上の3本柱は相互に密接に関係し、「向こう側をどう捉えるか」という大きな問いも共有しています。隔月でこの三部会を回転させつつ、各自の研究関心に反映させてゆくこととしました。まずは5/13(日)、夢の部会で北條が報告します。
※ 上記2)について、意見交換によって訂正した箇所があります(コメント参照)。

会談前後

金曜担当の「と”ゐ」でございます(と、勝手に宣言してみました^^;)。このブログ「ほぼ日刊」の看板を支えるべく、エントリいたしますです。

さて。
ほうじょうさんより出されたお題「『怪談前後』を批判的に読み込む」ですが、これはなかなか難しいのでございます。というのも、私なぞは初期設定として大塚本を批判的に読むよう訓練されてしまっているので、たとえば水野葉舟についての言及、「葉舟は柳田に新聞社に自身の仲介を希望する内容を含む柳田宛の書簡をしたためてはいるが、投函されずに残されている……そういった含蓄が葉舟にはある」<同書348頁>の「含蓄」は、そりゃさすがに「含羞」でしょう的レベルで躓いており、とはいえ同時期に刊行された『公民の民俗学』「あとがき」を読めば、これは「手書き文字」を原因とする「誤植」かとも思われ、瑣末な部分に拘泥することなどないと自分に言い聞かせたりもするのですが、アレアレ「公民」とか「公共的なことば」云々は、大月隆寛や佐藤健二がそれこそ柳田民俗学を論じた際に述べてきたことではなかったか?それにしては『怪談前後』のあちこちでいわゆる民俗学あるいは柳田研究者たちの言質を揶揄的に挙げているけれども、大月・佐藤についてはどこで言及していたっけ?でもそもそも大塚本は「批評」であって、「研究」ではないと当人が断わり書きしているようにも読めるから、そこへツッコミ入れるのは野暮の極みというものだし、ネット上で真面目に批判したところでマトモに反応されることは(少なくとも私の経験では)絶無だと判断するところでございます。ついでに、以前とある「会」の論集について活字の書評として応対した際、こんなところで反応されただけで後は放置、てな経験もまた自省的に再考させて頂く契機となりました。
個人的には、本書冒頭の「日ユ同祖論」は大塚の近刊『疑史としての民俗学』を待つとして、本書の主題である自然主義との関係、つまり田山花袋・佐々木喜善・水野葉舟を柳田と並べ、「ことばの更新」としてみせたところは、むしろこの四谷会談がその表現手段も含め模索している現在と重ねて眺めているところです。

2007年4月3日火曜日

冥報記の底本

もろです。書き込み練習も兼ねて。
『冥報記』というと、皆さんどのバージョンを使うんでしょうか。とりあえずのメモとしてリストアップしてみます。遺漏その他があればご指摘ください。

  • 高山寺蔵奈良朝旧紗本
  • 前田家尊経閣文庫写本
    • 平安時代のヲコト点があるらしい。
    • データベースもある?
  • 知恩院蔵本
  • 『大日本続蔵経』2乙・23・1(台湾版Vol. 150、新纂版第88巻)
    • 佐々木憲徳『冥報記輯書』もあり。
  • 『大正新脩大蔵経』第51巻・No. 2082
    • 高山寺本、知恩院本、続蔵経が底本。
    • 電子テキストあり。
  • 岑仲勉「唐臨《冥報記》之復原」(『中央研究院歴史語言研究所集刊』17、1948年)
  • 内田道夫編『校本冥報記』(東北大学文学部支那学研究室、1955年)
  • 原田親貞・伊野弘子「冥報記全釈(一)」(『学苑』651、1994年)〜「同(十三)」(『学苑』701、1998年)

2007年4月2日月曜日

桜から四谷会談を

さっそく、ロハスさんからデータを提供していただいているようですね。ありがとうございます。昨日のまとめは自分のブログに書くつもりでいますし、こちらにも当然載せておきますが、今日は試しに雑感を。
 写真は日曜に撮った、上智横真田堀の桜です。打ち合わせが終わっての帰り際、ロハスさんと、「やっぱり桜って気持ち悪いですよね。枝振りとのコントラストが」「死体が埋まってるからね。花が咲いていないとそうでもないけど、咲くと一気に異様になるね」などと話をしていたのでした。実は真田堀には、空襲で亡くなった身元不明の人たちが、そのまま埋め立てられているとの噂があります。学部1年のとき体育の先生に、「だから真田堀グラウンドの水道は飲んじゃいけない」と、いま考えるとよく分からない〈学校の怪談?〉を聞かされました。飲み会でちょっとお話しした、「どうして人間は、破滅的環境にも美を見いだせるのか?」という問題とも通じてくるかもしれません(こないか)。
 今日も夜桜を眺めながら帰ってきましたが、…やっぱりなんとなく不気味でしたね。次回はお岩稲荷にお詣りにゆきましょう。

 ところで、昨日打ち合わせにも持ってきていましたが、電車のなかで眠い目を擦り、大塚英志『怪談前後—柳田民俗学と自然主義—』を読んでいます(と”ゐさんはちゃんと批判的に読み込んでるんでしょう?)。冒頭、ナチス・ドイツがアーリア民族の起源をアトランティスに置いていたという例の話が紹介されているのですが、「古代の秦氏が始皇帝に起源を求めたり、漢氏が漢の高祖を始祖に据えたりするのも同じだよなあ」とつくづく思ってしまうのでした。始皇帝なんて、平安貴族の実感としては、ムー大陸みたいなものだったんじゃないでしょうかね。

井上円了著作情報(1)

『井上円了選集』第16巻から21巻は妖怪学関連の著作。柏書房の『妖怪学全集』は該当巻の市販版。

第16巻
 妖怪学講義(第1・2分冊)
第17巻
 妖怪学講義(第3・4分冊)
第18巻
 妖怪学講義(第5・6分冊)
第19巻
 妖怪玄談
 妖怪百談
 続妖怪百談
 霊魂不滅論
 哲学うらない
 改良新案の夢
 天狗論
 迷信解
第20巻
 おばけの正体
 迷信と宗教
 真怪
第21巻
 妖怪学
 妖怪学講義録
 妖怪学雑誌
 妖怪学関係論文等
 (解説)井上円了の妖怪学の歴史的意義  板倉聖宣
 (解説)井上円了の妖怪学とそれ以後  小松和彦
 (解説)井上円了と妖怪学の誕生  三浦節夫
 妖怪学参考図書解題  山内瑛一
 妖怪学著書論文目録
 妖怪学総索

出版情報:井上円了センター
http://www.toyo.ac.jp/enryo/publicat/index.htm より。